木曽川への旅(2008年の旅) その10 「野麦街道」、そして鰤(ぶり)街道

そして、「ああ野麦峠」で有名な「野麦街道」である。

野麦街道は飛騨高山と松本を結ぶ道で、江戸時代、飛騨から江戸への最短距離であったため盛んに使われたが、主な道は梓川右岸を通る山道と、中山道藪原から境峠を越える本道の二本のルート。

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梓川右岸を通る山道が黄線の道、現在はこの道が野麦街道として整備されている。

中山道藪原から境峠を越える本道が赤線の道、青丸の藪原宿からは中山道に合流する。

この両方向からの道が、緑丸の寄合渡で合流し、野麦峠を超え、飛騨高山へ続く。

この他にも信濃と飛騨を結ぶルートはあり、季節による変動時代による変動もあったので、普遍的確定的な野麦街道としての経路は、実はないのだという。

野麦街道は高山からの鰤(ぶり)の道(鰤街道)でもある。

松本地方では、野麦峠を越えて高山からもたらされる鰤を「飛騨鰤」と呼んで、「年越し魚」として重要視した。

飛騨・高山で鰤がとれるはずもなく、実は富山(越中)から高山まで運ばれたもので、高山では「越中鰤」と呼ばれていたもの。

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これを松本地方の商人が高山の市場で拝み倒すように分けてもらって、野麦峠を越えた段階で「飛騨鰤」と呼ばれたのである。

この「飛騨鰤」は具体的にはこんな風に運ばれた。

「鰤」が必要とされるのは、もっぱら年末から正月で、師走に多量の「鰤」を運んだ。

勿論冷凍設備がない時代で、「鰤」が腐らないようにたっぷりと塩を含ませ、富山から飛騨へ約92キロの距離を約4日で運んだ。

高山では「鰤の市」が立ち、大いに賑わったというが、仕入れが出来るのは地元商人のみで、信州からやって来る魚商人は高山で飛騨鰤を仕入れることがなかなか出来ず、「私めにも売っていただけまいか?」と、「もみ手をしながら仲買に頼んでいた。」という。

高山から野麦峠を越える道は雪が深く、人が荷を背負って運んだ。

これを「歩荷(ボッカ)」と呼び、一人で60~100キログラムを担いだ。高山と松本間の24里(96キロ)を8日間かけて運んでいた。

師走の忙しい中、二週間ほどかけて鰤が松本に到着する。

松本地方には越後から鮭も入って来たが、鰤のほうが特に珍重された。

鰤は出世魚、そのせいではないのだが、越中から信州へ運ばれる間に、運搬費用、手数料、税金、小売の利益等が加わり、米一俵(元の四倍)の価格になったと言う。

鰤は高価で、普段は主に金持ちの食べ物だったが、正月だけは特別で、塩イワシや塩サンマを常食とする庶民も、この時ばかりは無理をして鰤を買って年を越した。

鰤の飛騨からの輸送は、1902年(明治35年)に篠ノ井線が開通するまで続いた。

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この鰤が通ったルートを「鰤街道」と名づけ、富山県、岐阜県、長野県が観光化を図っているという。

野麦街道の延長は鰤街道、日本の道が少し見えて来た。

そして藪原に戻る。

藪原宿をぶらぶら歩き、行ったり来たりしてみた。

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奈良井宿と違い、宿場の面影を残している場所はほとんど無かったが、わずかに高札所などが残っていて、往時の賑わいを想像させた。

藪原は野麦街道(鰤街道の一部)の本道が通過する宿場町、文化と物流の十字路と言える地形に陣取っている。

ここには、江戸と上方の文化だけでなく、野麦街道を通じて富山とも繋がる。岐阜の高山を経由して日本海の文化が、運ばれた物資とともに流れ込んできた。

最初に予定していた「ああ野麦峠」の話は、機会を改めてとする。

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