松前街道をゆく(2014年の旅) その7 歴史発見ゾーンで五稜郭と箱館奉行所の歴史を学ぶ

渡り廊下を渡りきると、見学場所は歴史発見ゾーンとなった。

ここには、箱館奉行所の役割や五稜郭のこと、箱館戦争のことなどが詳しく展示資料で説明されていた。

ここでの資料を参考にしながら、箱館奉行所や戊辰戦争最後の戦争である箱館戦争のことなどについて記していきたい。

まず箱館奉行所だが、江戸時代後期になって新たに設けられた江戸幕府の役所で、ロシアの脅威とアメリカ等の脅威に対抗して二度にわたって設置されている。

ロシアの脅威に対抗して奉行所が最初に置かれたのは享和2(1802)年のことで、蝦夷奉行(同年に箱館奉行と改称)として設置され、その翌年には箱館の港を見おろせる場所(現在の元町公園)に奉行所が建てられた。


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今まで鎖国体制をとっていた日本沿岸に18世紀後半から外国船が近づく事件が頻発するようになり、ロシアの南下政策の影響もあって、日本とロシアの関係悪化が進んだ。

江戸幕府は、外交上の問題に直接かかわれる体制をつくるため、寛政11(1799)年に松前藩が統治していた東蝦夷地を直轄地とし、その後奉行所を開いた。

その後は、箱館に根拠地を置いた海商・高田屋嘉兵衛などの尽力により良好な日露関係は保たれ、クナシリやエトロフなどの漁場は開拓され、幕府の蝦夷地経営は軌道に乗った。

幕府は財政難の問題もあったが、対外関係の緊急の問題は去ったという判断から1821(文政4)年に松前藩を蝦夷地に戻し、ここでいったん箱館松前奉行は役割を終えた。

二度目に箱館奉行所が設置されたのは幕末の頃で、アメリカ等の脅威に対抗して同じ場所に設置された。



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  嘉永6(1853)年にアメリカのペリー艦隊が浦賀に来航し、翌年には日米和親条約が締結され、下田と箱館の開港が決定。

ペリー艦隊は1854年4月には箱館に入港、幕府はペリーが箱館を去った翌月に、箱館奉行所を34年ぶりに復活した。


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再設置された箱館奉行所の任務は、開港にともなう諸外国との外交交渉、蝦夷地の海岸防備、箱館を中心にした蝦夷地の統治。

箱館には各国の領事館が置かれ、箱館奉行所は外国との重要な窓口となった。

 奉行所は箱館山のふもとにあり奉行所から箱館の港と町を一望できたが、同時に箱館に入港する外国船からも奉行所が良く見え、箱館港に出入りする外国の軍艦から格好の標的とされる場所に建っていた。

そこで、箱館奉行所の移転が検討され、箱館の隣村・亀田村にある柳野と呼ばれる緩やかな丘陵地が選ばれた。

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 そこに、箱館奉行支配の諸術調所教授役で蘭学者の武田斐三郎の設計により、四方を土塁で巡らせた箱館奉行所を建てたのである。

この奉行所を囲む土塁こそが、亀田御役所土塁すなわち五稜郭である。

五稜郭は、設計当初から星形の土塁を計画していたわけではない。

安政2(1855)年に箱館へ入港したフランス軍艦の軍人が、大砲や小銃による戦闘が中心となったヨーロッパで考案された土木技術を伝え、築城術が書かれた書籍を箱館奉行に贈呈、武田は設計図や絵図面を写し取って西洋式築城術を学び五稜郭築造の参考にした。

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 文久21862)年からは、江戸の中川伝蔵(代人:伊兵衛)によって、五稜郭の内部で御役所(奉行所)の建築が始まった。

五稜郭の築造が始まってから約7年がたった元治元(1864)年に御役所の建物がほぼ完成、箱館奉行小出秀実により箱館山のふもとから五稜郭へと奉行所は移転した。

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