奈良大和路散歩(2016年の旅) その10 「景行天皇陵」で今日の旅を終える

「卑弥呼庵」を出て、桜井市の方角にある「景行天皇陵」に向かって歩いていく。

「景行天皇陵」が今日最後の見学場所である。

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写真真ん中の三輪山を眺めながら、写真右手の方向に歩いていく。

右端の白い標柱に書いてあるが、この辺りは「歴史的風土崇神天皇景行天皇特別保存地区」である。

この二人の天皇のことは日本最古の歴史書である「古事記」と、日本最初の正史(国家が編纂した正式な歴史書)である「日本書紀」に書かれている。

なにぶん古い話で、古事記に至っては3巻(上巻、中巻、下巻)の内、上巻は丸々日本の国の創世神話となっており、中巻は初代神武天皇から第15代応神天皇まで、下巻は第16代仁徳天皇から第33代推古天皇までとなっている。

この二人の天皇が「古事記」と「日本書紀」にどう描かれているかほんの概略を見ると、「古事記」では、「第10代崇神天皇は疫病を鎮めるために、夢に現れた大物主神を三輪山に祀る」と記され、「第12代景行天皇は息子の倭建命(やまとたけるのみこと)に命じて西征(九州に遠征し熊襲建を滅ぼす)や東征(東国の蝦夷や神々を平定する)を行なった。」と記されている。

全30巻+系図1巻の構成となっている「日本書紀」では、崇神天皇一人が書かれている巻第五に「崇神天皇が疫病の流行やそれを鎮め諸国平定のために四道将軍を派遣したこと」、

 景行天皇と成務天皇が書かれている巻第7に「景行天皇が倭建命に命じて西征や東征を行なったこと」が書かれている。

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その景行天皇の陵とされる渋谷向山古墳(前方に見える森)に来た。

なにぶん古い話なので、この古墳も実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「山邊道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ)」として第12代景行天皇陵に治定されている。

今は景行天皇陵に治定されているが、江戸時代には崇神天皇陵と思われていて、築造年代は現在の崇神天皇陵である行燈山古墳より少し遅れた4世紀後半と推定されている。

「古事記」と「日本書紀」に話を戻す。

古事記」は、日本の古代政治(律令による統一政治)を確立したとされる天武天皇が、天皇家の系譜を記した「帝紀」と朝廷の伝承を記した「旧辞」に史実と異なる記述が多いためこの誤りを正そうと稗田阿礼に暗唱させ、天武天皇の死後は稗田阿礼が語った内容を太安万侶が筆記して712年に完成させた。

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景行天皇陵をバックに記念撮影し、また話を記紀に戻す。

「日本書紀」は、同じく天武天皇が681年に天皇の6人の皇子に編纂を命じたのが始まりで、その後40年間作業が続けられ、最終的に天皇の子である舎人親王が完成させた。

すべて漢文で書かれていて、神代から持統天皇までのことが編年体(年代順に記述する形式)で記されている。

後半になるほど各天皇に関する内容の密度は高くなり、天武天皇だけで2巻、持統天皇だけで1巻を占めている。

「古事記」の基本資料である「帝紀」や「旧辞」だけでなく、諸家の伝承や個人の手記、朝廷の記録、中国や朝鮮の歴史書などさまざまな資料が参考にされていて、「日本書紀」の編集に渡来人が深く関わったと考えられている。

「日本書紀」を編集した最大の理由は中国や朝鮮に正史を示すためで、この日本が最初に完成させた正史は、遣唐使によって中国に運ばれたと伝えられている。

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景行天皇陵の周りを歩いてみた。

陵は全長310メートル、前方部幅170メートル高さ23メートル、後円部径168メートル高さ23メートル。

墳丘は東西方向に主軸をおき、後円部は正円形で3段築成、前方部も3段で築かれていて、後円部頂上は平坦で円形である。前方部の頂上も平坦で長い台形である。

周濠は盾形をなしていて、周濠への湛水のため渡土堤を設置している。

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景行天皇陵の正面部は、さすが宮内庁の管理下だけに立派に整備されていた。

多くの古墳群がこの辺りには点在するが、崇神天皇陵と景行天皇陵だけが国有地となっていて、他の古墳群は残らず私有地とのことだった。

ようやく山の辺の道の1日目を終えた。

ここから近くのJR桜井線纏向駅まで歩き、そこから天理駅まで2両編成の電車に乗り、天理駅前のコンビニで上握り寿司と缶ビールを買った。

2万歩以上は歩いたのでかなり疲れたが、1880円の少々贅沢な夕食で完全回復し、この日はぐっすり眠れた。


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