大阪散歩 その49  「司馬遼太郎への旅」の終わり 

 「司馬遼太郎への旅」は今回で最終回とする。
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 これから訪れるのは、司馬さんの街道をゆく「堺・紀州街道」の中で司馬さんが訪れた赤字アの南宗寺と、赤字イの「阪本のほねつぎ」から入る旧紀州街道である。
 「さかい利晶の杜」で時間をとってしまって、肝心の「堺・紀州街道」の中の予定地を見る時間が少なくなったので、大急ぎでバスに乗り、大急ぎで南宗寺に向かった。
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 ここが南宗寺で、石柱には南宗禅寺と書いてあるがここが目的の南宗寺である。
 南宗寺は堺市堺区にある臨済宗大徳寺派の寺院で三好氏の菩提寺である。
 1557年、当時畿内随一の実力者に上り詰めた三好長慶が非業の死を遂げた父・三好元長の菩提を弔うべく、大林宗套に開山を依頼して南宗寺を創建した。
 創建当時、この寺は宿院町付近にあったと伝えられている。
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 三好長慶は1522年、細川晴元の重臣である三好元長の嫡男として現在の徳島県三好市で生まれた。
 室町末期の細川政権(1493年~1549年)を崩壊させ、三好政権(1549年から1568まで存在した日本の武家政権で、同時代における他の戦国大名の地方政権とは大きく異なる中央政権であったと言われ、織田政権の前提となるプレ統一政権と評価されることもある。)を築いた。
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 この寺の奥で、司馬さんが書いていた「利休遺愛の手水鉢」を見つけた。
 ここには手水鉢の向こうに利休の師である武野紹鴎(たけの じょうおう)遺愛の「六地蔵石灯籠」と、道を挟んで反対側に利休好みの茶室「実相庵」があった。

 時間を気にしながら南宗寺をざっと見て、駆け足で旧紀州街道に向かった。
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 ここが、司馬さんが書いていた「阪本のほねつぎ」で、ここから紀州街道に入る。
 今は司馬さんが旅した当時の、二階建本瓦葺きの家屋ではなく、三階建の近代的なビルディングに変わっていた。
 街も大正初年の街のようではなく、すっかり今風の街並みに変わっていた。
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 「道は狭く、家並みの二階は低く、そして人通りがない」と書かれた通りも、今風のごく普通の通りに変わっていた。
 紀州街道で登場したこの辺りの床屋さんは、この街の表通りで商売することを誰もが願っていて、ここで商売している人は憧れの的となっていたと語っていた。
 この床屋さんの案内で、司馬さんは菅原道真が九州に流される際に船待ちした「船待神社」に行くのだが、その神社を最後に見ておきたかったので、通りすがりの方に案内してもらって「船待神社」に行った。
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 ここが「船待神社」の入り口である。
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 そしてこれが、菅原道真が座ったとされる腰掛石である。
 この椅子にしばし座って、九州行きを覚悟した菅原道真の心境を味わっってから、駆け足で10~15分程歩いてホテルに戻って、急いで荷造りをしてから新大阪駅に向かった。

 新幹線には余裕で乗れたが、一時はどうなるかと思って心配した。
 あれも見たいこれも見たいという欲が、余裕のない状況を生んでしまったことを心から反省するとともに、台風を心配しながらも旅を終えてみれば楽しくて比較的苦労の無い旅ができたことを心から感謝して、「司馬遼太郎への旅」を終える。

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