東京散歩Ⅱ その27 江戸東京博物館を見学 その3 吉原遊廓

 吉原遊廓の展示も興味を引いた。
 吉原とは江戸幕府によって公認された遊廓で、初めは江戸日本橋近く(現在の日本橋人形町)にあり、明暦の大火後に浅草寺裏の日本堤に移転した。
 前者は元吉原、後者は新吉原と呼ばれていた。
 元吉原や新吉原は幕府公認の遊郭で遊女は3000人ほどいたというが、多くの働き盛りの男の要求を満たす数ではなく、費用の面からも高値の花だった。
 そこで幕府は、岡場所と呼ばれる非公認の私娼の営業を黙認していた。
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 品川、新宿、千住、板橋の江戸4宿のほかに、深川、本所、根津などに160箇所余りあったといわれている。
 岡場所は吉原のように格式張らずに気楽に遊べ、しかも費用が安あがりだった。
 この岡場所でも通用しなくなった女たちが夜鷹や船饅頭と言われる外娼で、物陰でゴザを引いて商売したり船上で商売したりしていた。
 話をまた吉原遊廓に戻す。
 江戸全体に広がる岡場所など遊女屋のあまりの多さに端を発し、江戸市中の遊女屋をまとめて管理する治安上の利点や風紀の取り締まり更には幕府冥加金(上納金)を受け取れるという江戸幕府の目論見と、遊女市場の独占を求め陳情を繰り返した一部遊女屋の利害が一致した形で、吉原遊廓の歴史は始まった。
 場所は現在の日本橋人形町で、当時は海岸に近く葦屋町と呼ばれていて、葦の茂る江戸全体からすればかなりの僻地で、「吉原」の名もこの辺りの風景から来ているという。
 しかし、その後江戸は拡大しつづけ、大名の江戸屋敷も吉原に隣接するようになり、1656年に幕府は吉原の移転を命じ、浅草寺裏日本堤の新吉原への移転となるのである。
 ここから吉原というものの実態について迫っていく。
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 男たちは吉原遊郭へ馬や駕籠で行く。
 吉原は性衝動に駆られた男たちが行く風俗街ではなく、男たちが厳しい身分社会の中で自分を主張出来る非日常的な夢の世界だった。
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 吉原は非常に格式が高く、庶民程度の男は中に入ることすら出来ない。
 吉原のシステムでは、客として行く男が目当ての遊女と男女の仲になるためには最低3度は通わねばならないという。
 しかも一度指名したら別の遊女に鞍替えは御法度で、もし遊郭に浮気がばれたら客の男には手ひどいお仕置きがまっていたとのこと。(ここまでして行くようなとこか、僕は疑問です。)
 どうやら吉原は究極の「男と女のラブゲーム」を行うための場所だったらしい。
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 まるで平安時代の中宮のような極彩色の衣裳を来て、派手なかんざしと派手な髪型と、竜宮城にでもいるような贅沢な料理と踊りで脇を固め、理想化されたラブゲームという非日常的な幻想を楽しむ場所だったようだ。
 そのための代価が、現代のお金で安くて数百万円か、ヘタすればその倍ほどかかったという。
 客には派手な竜宮城であっても、実際の吉原の遊女たちの生活は過酷極まりないものであったという。
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 この展示パネルを見ると、昼過ぎから夜中の3時頃まで15時間も働いて睡眠時間はたぶん3~4時間くらい、これでは3時間睡眠で頑張った野口英世と同じ位の頑張りである。
 英世のように人類の役に立つような病原菌(梅毒ウィルス、スピロヘータの研究に成功)を発見したり、1000円札の表にでも使われてればいいのだが、その逆に梅毒のような恐ろしい病気が遊女たちを頻繁に襲った。



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