奈良散歩 その27 興福寺を静かに去る 

 国宝館から出て、去年の107日に301年ぶりに再建された、真新しいピカピカの中金堂まで歩いた。

1

 中金堂は東西37メートル、南北23メートル、高さ21メートルで、同じ奈良市の平城宮跡に復元された宮殿施設である第1次大極殿とほぼ同じ規模である。

2

 奈良では江戸時代に再建された東大寺大仏殿(東西57メートル、南北50・5メートル、高さ46メートル)に次ぐ大きさの木造建築である。

 中金堂の中に入ったが、国宝館でいいものを見過ぎたせいか本尊の釈迦如来坐像があまりにケバケバシク安っぽく見えたので、すぐに外の中金堂前広場に出た。


 この中金堂前広場からは今まで興福寺で見てきた建物や塔がほぼ見えるので、もう一度それらのものを見て興福寺を卒業する。


3

  これは南円堂で、ここからは見えないがこの堂の下に、まことに美しい三重塔が建っている。

4

  この方角の中央に、屋根しか見えないが北円堂が建っている。

北円堂の中には、567000万年後に現れる未来仏の弥勒如来が静かに眠っていた。


5

 南円堂や北円堂と反対の方角には、東金堂と五重塔が並んで建っている。

6

 東金堂と中金堂の間には先ほど阿修羅像を見た国宝館が見えているが、阿修羅に出会った余韻が再びこの場で甦って来た。

他の八部衆は造りものだという感じがしたが、阿修羅はとても人間臭くて、司馬さんでなくても「たれでも好きになる」、とても魅力に溢れた仏像だった。


他の八部衆も阿修羅も、身長が148cmから155cm程なので、奈良時代に生きていた実在の方がいて、その方々をモデルとして造り上げたものなのだろう。


顔は人間でない像もいたが、身体の造りを見る限り、阿修羅だけが女性(少女)で他の像は男性にしっかり見えた。


7

 その中でも阿修羅の出来は群を抜いていて、再びこの阿修羅に会うこともないだろうが、実在の奈良時代に生きた女性(少女)に会えて本当に良かったと、今日の出合いに感謝した。

 奈良時代は藤原氏がその成立に深く関わった時代で、その中でも藤原不比等が一番の功労者と言えるのだが、興福寺は藤原氏の氏寺で、藤原不比等の開基による寺である。


 興福寺は奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、特に摂関家藤原北家との関係が深かったために手厚く保護された。


平安時代には春日社(藤原氏の氏神)の実権を持ち、大和国一国の荘園のほとんどを領して、事実上の同国の国主となった。


その勢力の強大さは、比叡山延暦寺とともに「南都北嶺」と称され、寺の周辺には塔頭と称する多くの付属寺院が建てられ、最盛期には百か院以上を数えた。


8

 中臣鎌足と中大兄皇子が談山神社で談合して乙巳の変を起こし大化の改新を断行して以来、藤原氏は鎌倉時代に入るまでの奈良時代そして平安時代と、日本の王朝時代の政治の中心に位置していた一族なのである。

9

 興福寺を終えるにあたり、氏寺の主である藤原氏を最後に語ってきたが、この寺の代表的な宝物である五重塔を今一度見て、興福寺を静かに去ることにする。

"奈良散歩 その27 興福寺を静かに去る " へのコメントを書く

お名前
メールアドレス
ホームページアドレス
コメント