甲州街道と佐久平みち その19 上田城跡と真田氏 

 川中島古戦場から、次に上田城跡に向かった。





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 上田城跡まで距離にして30km程で、午前11時半頃には上田城跡駐車場に到着した。

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 ここから城内までは500m以上あり、ペットボトルの水を飲みながらとぼとぼと歩いた。

 後でわかったことだが、レンタカーを停めた駐車場が適切でなく、真田神社の近くの駐車場に停めればこんなに歩くことはなかったのである。



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 結局、黄線の道を城をほぼ一周して目的の再移築された上田城魯に到着した。



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 上田城跡は石垣と櫓(西櫓)が1棟残るのみであったが、昭和期には移築されていた本丸の北櫓と南櫓の2棟が元の位置に復元された。



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 平成期には櫓門や塀などが木造復元されており、今後は二の丸の土塁や塀なども復元されることになっている。


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 上田城は戦国末期、信濃国小県の真田本城主の真田昌幸が真田氏当主であった1583年に築城した平城である。

上田を含む信濃国は、支配していた武田勝頼を甲州征伐で滅ぼした織田信長が本能寺の変で横死した後、天正壬午の乱と呼ばれる争奪戦が行われた。


甲州征伐で生き残った真田昌幸は、臣従する相手を次々変えたうえに徳川家康についたが、天正壬午の乱の戦後処理を巡り対立した。


1585年の第一次上田合戦で、攻め寄せた徳川軍を撃退した。


その後天下人となった豊臣秀吉亡き後に起きた関ヶ原の戦いで西軍についた真田昌幸は、連動する第二次上田合戦でも東軍別動隊の徳川秀忠軍をよく防いだ。


本戦で西軍が敗れたため、昌幸は紀伊国の九度山に配流され、翌1601年に上田城は徳川軍に徹底的に破却されて堀も埋められたのである。



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信濃の千曲川一帯は、平安時代に清和天皇の第4皇子貞保親王が信濃国海野庄に住し、その孫の善淵王が905年に醍醐天皇より滋野姓を下賜されたことに始まるとされる。


当時の滋野氏は、信濃国内の御牧全体を統括する牧監であった。


その後滋野氏は、善淵王の玄孫にあたる滋野則広の嫡子・重道の代に海野を名乗り、その子の代に根津氏や望月氏に分かれ、以後信濃国小県郡や佐久郡を中心とする名族として栄えたとされている。





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 鎌倉時代には信濃全域から上野国吾妻郡にまで滋野氏流を名乗る支族が広がっていき、その中で海野氏・根津氏・望月氏は特に「滋野三家」と呼ばれて嫡流の家柄とされた。

 真田氏は滋野三家のうちの根津氏の支流だった可能性が濃厚である。


根津氏の当主根津越後守遠光の配下に「実田」の名が見られ、これが「真田」の当て字とする説が現実的で、「実田」を「サナダ」と読むとすれば、真田氏は根津氏の支流となる。



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 ところで、真田といえばこの六文銭となる。

六文銭は東信濃の古代以来の豪族滋野氏の代表家紋であり、その流れをくむとしている真田氏もこれを用いていた。


六文銭は仏教説話の六連銭に由来する家紋で、銭六文を死者の棺に入れて六地蔵に供える風習にのっとっており、不惜身命を唱える武士にはふさわしい旗印であった。



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 最後に真田神社で旅の無事を願って、上田城址跡を去った。


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