「鎌倉ものがたりと横須賀ストーリー」 その37 三浦氏の本拠地「衣笠城跡」へ

 猿島から歩いて京急横須賀中央駅近くの繁華街へ戻ったが、戻るだけで30分程かかった。

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 それから30分くらい中央駅近くを歩き「横須賀海軍カレー」の店を探したが、適当な店に出会わず、横須賀中央駅より徒歩5分の「鳥ぎん米が浜通店」を偶然見つけてそこに入った。

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 このカキフライ定食の幟旗があまりに魅力的だったので、昼食は迷わずカキフライ定食を注文した。

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 店の前の看板に出ていた通りの新鮮な広島県産のカキを美味しくいただいて、ここで少し休んで、三浦半島の支配者として君臨した三浦氏の本拠地「衣笠城跡」へ向かった。

 衣笠城は、前九年の役の戦功により源頼義から相模国三浦に領地を与えられ当地の三浦氏の祖となったとされる三浦平大夫為通が1062年に衣笠山に作った城で、三浦氏が勢力拡大するたびに増築されていく。

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 「衣笠城跡」へは、京浜急行横須賀中央駅から青線の道を30分ほど京急バスに乗り、小黄点の衣笠城址バス停で下車し、赤線の道を黄星印の城跡まで登っていく。

 普段の僕の旅ではバスの旅などほとんど経験もなく、感に頼ったり地元の人の親切に甘えたり運転手にしつこく聞いたりして、ようやく無事衣笠城址バス停に下車した。

 しかしここからがまた大変で、またまた地元の何人かの人に道を聞きながら、ようやくこのあたりまで辿り着いた。

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 ネット情報のバス停から15分というのはどうも別の道のことで、道を案内してくれた方によると、僕の歩いて行く道は車の来た方向にまだ15分以上も歩くらしい。

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 不安ながらも先ほどの四角から2分ほど歩くとこの地蔵堂があり、その横に衣笠城跡(大善寺境内内)を示す矢印標識が建っていた。

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 ここからが最後の難関である大善寺(城址跡)へと続く急坂で、坂から降りて来た消防車の消防士に聞いても、「これからもっと坂が厳しくなる」とがっかりするような返事をされて、僕の中に残っていた元気はすっかり奪われてしまった。

 しかし気を取り直して、目的である三浦大介義明の城址跡へ突進した。

 鎌倉幕府を築いた源頼朝が平家討伐の挙兵を挙げたとき、この三浦荘(現横須賀市域)の長老は三浦大介義明(1092〜1180)であった。

 大介の介は国司である守の次官のことで、今で言えば副知事のようなもので、国司は律令制が進むにつれ地方には来ずに、実際の国司の仕事は現地にいる土着の地方豪族である介が行なった。

 この介は世襲で代々三浦氏に引き継がれ、三浦義明も介として国務に当たっていたが、自分は唯の介ではないという自負から、大介と名乗っていた。

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 三浦大介義明のことを考えながら急坂を登っていき、午後3時に大善寺の太聖殿に到着、この寺の裏山が公園となっていて、そこが衣笠城跡である。

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 最終目的地の衣笠城跡に続くこの石段を登りながら、三浦大介義明のことを考えた。

 義明は衣笠城塞のそばで生まれ、ここで死んだ。

 彼は多くの子女に恵まれた。

 長男の杉本義宗は和田氏の祖、次男の義澄は父の後嗣となり、また娘の一人は都から東国に進出した源義朝の側室となったという。

 最も有名な子は佐原十郎義連で、一ノ谷の戦いでは源義経率いる搦手軍に属し、「鵯越の逆落とし」で真っ先に駆け下り、大いに武勇をはせた。

 その活躍は平家物語に描かれ、後の世の語り草となった。

 源頼義から領地を与えられた三浦氏の現長老である三浦大介義明は、自分の死と引き換えに絶対絶命の苦境に立っていた頼朝に先祖の恩を返してそれに勝る開運を与え、それが武士政権の初めとなる鎌倉幕府を築く奇跡を生んだのである。

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 午後3時5分に衣笠城跡である公園に到着したが、当時を思わせる遺構はほとんど何も残っていなかった。

 三浦大介義明はここで独り城を守って、享年89歳で戦死した。

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