近江街道をゆく その17  中江藤樹の藤樹書院に行く

 これから日本陽明学の祖で、故郷の近江高島で書院を開き近江聖人と呼ばれた中江藤樹の藤樹書院に行く。

 江戸時代人の知的基盤は儒学であり、これを発展させ封建社会の教学となっていたのが朱子学(11世紀に宋の朱熹が大成した教えで、身分秩序や格物致知、理気二元論といった考え方を重視し、特に身分秩序に関しては、自然や万物に上下関係・尊卑があるように人間社会にもそのような差別があって然るべきと考える。具体的にその上下関係は「礼」として見出され、「敬(つつしみ)」(※うやまいではありません)を持ち、礼をわきまえ主君に従うことを説いている。)だが、中江藤樹の信奉した陽明学はその朱子学をまっこうから否定して生まれた思想で、この時代の革新的な思想となった。

 この陽明学にある教えに知行合一があるが、簡単に説明すると「思想は行動が共なってこそ完成する。人は言行一致でなければならない」というものである。

 そのために吉田松蔭をはじめとした幕末の革命家の多くが影響受け、高杉晋作、西郷隆盛、河井継之助、大塩平八郎、赤穂浪士の木村岡右衛門などの革命行動となった。

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 藤樹書院の案内の方がまだ昼休みとのことで、その隣にある書院の案内・休憩・土産販売施設である良知館でしばらく時間をつぶした。

 中江藤樹は1608年から1648年まで40年間この世に生存していた方で、江戸時代の平均寿命が45歳程なので、まあまあ平均的な長さの人生を生きていた方である。

 ここで古代からの日本人の平均寿命を紹介すると、縄文時代31歳、弥生時代30歳、古墳時代31歳、室町時代33歳、江戸時代45歳、明治24~31年 43歳、大正15~昭和5年 46歳、昭和10~11年 48歳、昭和22年52歳、そして現代日本人は承知のとおり軽く80歳を越える寿命を誇っていて、世界で一番長生きの国となっている。(戦後の高度成長を経て、急速に長寿となった。)

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 壁にあった中江藤樹の似顔絵を見ながら、陽明学のことを考えた。

 陽明学を概説すれば、この学問は明の王陽明が始めたもので、封建社会の教学となっていた朱子学を否定し、致良知、心即理、知行合一といった言葉でその思想の骨格を語っていて、思想の中心に「孝」を掲げている。

 単純に「親孝行する」という意味のみならず、周囲の人間との関係性を重視し、誰とでも懇ろに親しみ、上の者を敬い下の者を軽んじ侮らないこと、即ち「愛敬」を具体的な実践として説いている。

 農業を営む中江吉次の長男として誕生し、9歳の時に伯耆米子藩主・加藤氏の150石取りの武士である祖父・徳左衛門吉長の養子となり米子に赴く。

 1617年米子藩主・加藤貞泰が伊予大洲藩(愛媛県)に国替えとなり祖父母とともに移住する。

 1634年27歳で母への孝行と健康上の理由により藩に対し辞職願いを提出するが拒絶され、脱藩し京に潜伏の後近江に戻り、私塾である藤樹書院を開いた。

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 案内の方が戻ってこられたので、この二本の松の間を通ってその奥に建っている藤樹書院内に入った。

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 案内の方は建物内で20分程丁寧に説明をされた。

 先に記載した中江藤樹関連の記述の他に、藤樹の人生の座右の言葉となっていた「至良知」の意味を解りやすく説明いただいた。

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 致良知は、「大学」にある「格物致知」という言葉に対する解釈である。

 朱熹は「知を致すは物に格(いた)るに在り」とし、万物の理を一つ一つ極めて行くことで得られる知識を発揮して物事の是非を判断すると解釈した。

 王陽明は、朱子の解釈を知識の量的拡大だけを求めるものとして批判し、「知を致すは物を格(ただ)すに在り」として物を心の理としてそれを正すことによって知を致す、すなわち「良知を致す」ことであると解釈した。

 なかなか複雑で難解だが、案内の方はこの意味を「真っ直ぐで正しい心で日常生活を生きるということ。」と解りやすく説明してくれ、それは高校野球で有名な明徳高校の「明徳」と同じ意味だと教えてくれた。

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 藤樹書院を出てからもう一度書院を振り返ったが、時代が時代なら、中江藤樹は吉田松蔭になっていたかもしれないとふと考えた。

 どちらの人生が良かったというべきが、僕には答えの出しようがない。

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