能登(日本道)への道 その10 能登島をドライブ

 「須曽蝦夷穴古墳」から10分ほど走って、ひょっこり温泉に着いた。

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 ひょっこり温泉は、波静かな七尾湾にひょっこり浮かぶ能登島の中心部にある、日帰り天然温泉施設である。

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 約2,000平方メートルの建物には、サウナやジャグジーを備えた和風・洋風の大浴場があり、一週間交代で“男湯”と“女湯”が入れ替わるという。

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 しかし何よりも興味深いのは、このひょうたん型をした島が、温泉のすぐ近くに見えることである。
 ネットで調べたら、1964年4月6日から1969年4月4日まで、月曜から金曜の17:45-18:00の時間帯で、井上ひさし原作の「ひょっこりひょうたん島」という人形劇が、NHK総合テレビで放送されていたという。

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 その人形劇の島の形が、この島にそっくりなのである。
 原作者か番組制作者が、この島を知っていたかどうかは調べなかったが、ひょっこり温泉ひょうたん島と、かってに名を付けてここで紹介する。
 ひょうたん島の次に、日本三大火祭りのひとつにも数えられる能登島向田の火祭の開催場所を見に行った。

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 ここが、モニュメントのある開催場所である。
 向田の火祭は、越後の国をつくった伊夜比古神(男神)がこの地を訪れ、恋しい伊夜比咩神(女神)と年に一度の逢瀬を楽しむ祭りで、7月の最終土曜日に開催する。

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 この広大なスペースが祭りの主舞台で、高さ約30mもの巨大な円錐形の柱松明がここに造られていて、祭りの担ぎ手達は奉燈を据え置くと神輿の神燈の火を移した手松明を持ち、振り回しながら柱松明の周囲を駆け巡り、熱気が最高潮に達した頃、数百の手松明が一斉に柱松明に投げ入れられ、柱松明は巨大な火柱となって燃え上がる。
 燃え盛る柱松明は、山側に倒れると豊作、海側に倒れると豊漁になるといわれている。
 いずれに転んでもめでたしの、向田の火祭である。
 この後、能登島水族館を見学したが、印象が薄いので省略する。

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 午後3時半ころには、能登島と能登半島を繋ぐもう一つの橋「ツインブリッジのと」を渡って、レンタカーを返却するためにトヨタレンタリース七尾店に向かった。
 レンタカーを返却し、ホテルに戻って、ホテルの「旅人の湯」という大きな風呂に入った後で、花茶屋というホテルのレストランで、890円の上田カツカレーなるものを食べたが、鎌倉の有名カレー店で食べたものに味などがそっくりで、ご飯量も同様に大盛りだったので、ご飯は一部残した。

2019年「尺山女」釣りのスタート その3 桂橋上流と下流を釣る

 場所を変えて、桂橋上流と下流を釣ることにした。

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 まず、赤字Aの桂橋上流域である。

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 ここは2019年6月26日に、「泣き尺」の28cmの山女を釣り上げた場所である。
 しかし7月7日の今日は、この地点でも棹が強風にあおられて、思うところに釣り餌をなかなか投入できない状態となっていた。

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 それでも十数回は、この場所での二匹目のドジョウを狙って、しつこいくらいにキャストを繰り返したが、努力は全く報われなかった。
 今日は、そういう日であるらしい。

 入れ食いを望むな。
 スカでがっかりするな。
 無駄な一日を恐れるな。

 また、どこからか開高さんの声が聞こえてきた。

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 今日はこの場所での二匹目の「泣き尺」山女を諦めて、心に留めていた一匹目の「泣き尺」山女を再度登場させて、この場をなんとかしのぐことにした。

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 心の寂しさは、桂橋の少し上流の土手に自然に繁茂しているワラビで癒すことにした。
 10分ほど頑張って、片手で握れるくらいのワラビをゲットした。
 心の寂しさが二分の一ほど癒された。

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 次に、赤字Bの桂橋下流域を桂橋下からこの堰堤まで攻めた。
 しかし、ここも「天気晴朗なれど風強し」の状況には変わりなく、苦労してポイントにキャストすれども当たりすら出ない状態だった。
 ヒットして大物だと喜んだのもつかの間、ただのウグイが掛かっただけのことだった。

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 この堰堤から下の100m程も、山女は釣れるのは釣れるのだが10cmにも満たない幼稚園児が2~3匹程度で、渓相の割にはさっぱりだった。

 スカでがっかりするな。
 無駄な一日を恐れるな。


 開高さんの声がここでも聞こえた。

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 釣りを終えて顔を上げると、大石川の源流となっている朳差岳が見えていた。

 次回は、大石川の河口を狙ってみようと、この時思った。

東京散歩Ⅱ その11 「矢立初芭蕉像」や「やっちゃ場跡」 を見学

 このあと旧日光街道沿いに歩いて、「矢立初芭蕉像」や「やっちゃ場跡」を見てまわった。

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 まず最初は、「矢立初芭蕉像」である。

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 ここは千住宿奥の細道プチテラスで、テラス内には奥州や北陸など奥の細道へここから旅立った「松尾芭蕉の像」と、「日光道中・千住宿道標」、行灯をかたどった「日光街道・千住宿道標」、千住やっちゃばの小さなお宮にあった欅の木で作った「奥の細道入口、やっちゃ場看板」などがある。
 千住宿奥の細道と書いてある建物の右手前にある「矢立初芭蕉像」の前で、ここへ来たという証拠を残すために記念撮影した。
 千住宿奥の細道プチテラスから5分程歩くと「やっちゃ場跡」である。
 「やっちゃ場」とは青果市場のことで、せりのかけ声の「ヤッチャ~」からヤッチャバの名が起こったといわれている。
 「やっちゃ場」のあった通りを中程まで歩いていく。
 昔やっちゃ場の店を出していた家々の前には、扱い品と屋号を書いた木札が掲げられている。

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 ここは江戸時代後期から両替商を営み、明治時代後期から青果物問屋となった「谷清 谷塚屋」の跡である。

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 この近くに往時の「やっちゃ場」の街並みを再現した看板が建てられていたので掲載する。
 往時の「やっちゃ場」は昭和20年の空襲でほとんどの建物が消失して、焼け跡のなかで葛西屋の鉄筋造りの建物だけが原型を保ってポツンと建っていたという。
 「やっちゃ場」の起こりは、1576年に織田信長が安土城を築いたり、 小田原の北条市が勢いをふるっていた頃、自家産や近くの小川でとれた川魚などを道端に並べたのが市場開設のはじまりといわれ、江戸の初期から戦前にいたるまで「やっちゃ場」は庶民の台所として活気に満ち溢れていた。
 1594年に千住大橋が架けられると、野菜や川魚などの荷が増え始めたという。
 江戸廻りに位置するこの区域は徳川将軍家と深いつながり持っていて、将軍の狩場ともなっており、鷹狩や舟遊びなどで将軍が来訪した。
 また江戸城の生活を支える地域として、千住の「やっちゃ場」からは白魚が上納され、野菜などの生活物資が江戸城に供給されていたという。

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 その「やっちゃ場」の今の風景はこんなで、往時の栄華など通りのどこにもなく、木札や看板がなければその辺の普通の街である。

2019年「尺山女」釣りのスタート その2  千刈橋の上下流区域を釣る

 9月の「尺山女釣り」の事前練習として選んだのは、女川最下流の区域である。

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 具体的には、女川最下流の橋である千刈橋の上下流区域、女川で2番目に最下流の桂橋上下流区域、千刈橋と桂橋の間に点在する堰堤下の淵となっている区域である。
 これらの区域はアユ釣りの好ポイントともなっているようで、アユ釣り師と競合しながらの釣りとなるので、最初から苦戦を強いられる情勢である。
 今日1919年7月7日は、まず女川最下流の橋である千刈橋区域を攻めることにした。

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 この橋が千刈橋であるが相当の年代物で、初めてこの橋を車で渡る方は少々恐怖を感じるような橋である。

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 しかしあたりの景色は実に雄大で、ここにひっくり返って日がな昼寝でもしていたら、きっといい1日を過ごせたと思えるような場所である。

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 ここの土手で、今日は朝食となった。

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 メニューは、いろいろ納豆巻きに熟成辛子明太子のおにぎりに、自宅の家庭菜園で採れたキュウリとトマトと、少し日が経ったバナナである。
 もちろん、UCCコーヒーも食後にいただく。
 食事中もアユ釣り師達がこの橋近くに来て、結局三組のアユ釣り師が千刈橋上下流に入ってしまって、これでは山女も釣れないという状況になった。

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 その上今日は風が強く吹いているので、棹のコントロールすらまともにできる状態ではなくなっている。
 案の定この場所では、一匹の山女の当たりすらも無かった。

大阪散歩 その30 高貴寺にて

 弘川寺から、今度は高貴寺に向かった。
 ここはネットで事前に調べた通り、本道から寺までの道が本当に狭くて、すれ違いも全くできないたいへんな道だった。

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  それでも、5km程の道のりを20分程かけて高貴寺に到着した。

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 ここは高貴寺山門である。
 寺の開山は役行者で、文武天皇の勅願によるといわれている。
 仏に供養する香花(こうげ)が四季絶えなかったので香花寺と名付けられたが、弘仁年間に空海が来住した際、高貴徳王菩薩の示現を見たため、高貴寺と改称した。

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 これから山門から本堂に向かう参道を歩いていくが、左側の土塀の内側には学寮、本坊などがある。 

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 寺は全般的に荒れているという印象で、長い間時間の波に飲まれ放題でほっておかれているというふうな、手入れもそんなにされてないような寺と感じた。

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 ここが本堂で、現在堂舎としては本堂、講堂、開山堂、学寮が残っているという。
 この寺は江戸後期に慈雲が来住してから僧坊が整備され、正法律宣布の根本道場に一新、1786年に幕府の許可を得て高貴寺は正法律一派総本山となった。
 弘川寺には似雲が、高貴寺には似たような名の慈雲が、30年間にわたって住んでいたことを思って少し感動した。

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 寺の周囲の森には、香花になりそうな白い花が咲いていた。

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 香りまで嗅がなかったが、この赤い花も香花に使えそうだった。
 10分も居ないで高貴寺を後にした。

近江街道をゆく その30 埋木舎(うもれぎのや)にて

 この日の最後に、井伊直弼が13代彦根藩主となるまでの不遇の時期の15年を過ごした埋木舎(うもれぎのや)に行った。
 埋木舎は井伊直弼の命名で、ここは尾末町御屋敷(北の御屋敷)と呼ばれていた。
 彦根藩井伊家では、藩主の子であっても世子以外は、他家に養子に行くか、家臣の養子となってその家を継ぐか、あるいは寺に入るのが決まりとされていた。
 行き先が決まらない間は、父が藩主の間は下屋敷(槻御殿)で一緒に暮らすが、兄が藩主になると城下の「控え屋敷」に入って、宛行扶持(あてがいぶち)で暮らすこととされていた。
 尾末町御屋敷(「北の御屋敷」)はそうした控え屋敷の一つであった。

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 控え屋敷であるため下屋敷のような立派な建物でもなく、素材も一段下で大名の家族の住居としてはきわめて質素であり、中級藩士の屋敷とほぼ同等である。

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 彦根藩主の十四男として生まれた井伊直弼は5歳のとき母を失い、17歳のとき隠居していた父井伊直中(11代藩主)が亡くなり、弟の井伊直恭とともにこの控え屋敷に入った。
 300俵の捨扶持の部屋住みの身分であった。3年余りして直弼20歳のとき、養子縁組の話があるというので弟とともに江戸に出向くが、決まったのは弟の縁組(直恭は日向国延岡藩内藤家7万石の養子となる)だけで、直弼には期待むなしく養子の話がなかった。

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 直弼はしばらく江戸にいたが彦根に帰り、次のような歌を詠んでいる。
 世の中を よそに見つつも うもれ木の 埋もれておらむ 心なき身は
 自らを花の咲くこともない(世に出ることもない)埋もれ木と同じだとして、逆境に安住の地を求めてその居宅を「埋木舎」と名づけ、それでも自分には「為すべき業」があると精進した。

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 前日出会った男性の言っていたとおり、ここの住まいの古格ぶりが凄かった。
 世に埋もれて趣味に生きるとこのような感じになるのかなと思った。
 中国の詩人「陶淵明」の人生を逆に生きた井伊直弼の「花の生涯」が、ここに来て少し理解できた。

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 この屋敷は舟橋聖一の小説「花の生涯」で、井伊直弼が青春時代を過ごした館として登場、その後この小説はHHK大河ドラマ第1号として、1963年4月7日から12月29日までNHKで放映された。
 この埋木舎は、大河ドラマの主舞台となって再び表舞台に出て、9ヶ
月間テレビに登場した。

能登(日本道)への道 その9 須曽蝦夷穴古墳にて

 須曽蝦夷穴古墳の駐車場に車を停めて、正面の道を歩いていく。

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 150m歩けば、須曽蝦夷穴古墳に到着である。
 七尾市能登島須曽町に所在するこの古墳は、660年頃の古墳時代後期に造られた横穴式の方墳で、日本の古墳には例が少ない高句麗式の構造を備えている特徴がある。
 今回の旅は、日本と朝鮮半島や大陸との交流の痕跡を求めての旅でもあるので、高句麗の様式が認められるこの古墳を見ることは、今日一番の楽しみとなっていた。

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 150m程歩いて、国指定遺跡「須曽蝦夷穴古墳」到着である。
 この東西18.7m,南北17.1m、高さ約4.5mの方墳の墳丘の周囲を回りながら、二つの石室の入り口の方向へ歩いていく。
 歩いていくと、七尾湾が見えてきた。

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 この墳丘は七尾湾内に浮かぶ能登島の南岸に臨む字須曽の背後丘陵に所在し、このあたりの標高は約80メートルである。

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 墳丘を廻って石室の入り口に到着、左手が雌穴、右手が雄穴である。
 二基の石室とも長い羨道部をもち、全長約7メートル前後ある。
 雄穴と呼ばれる東側の石室は平面形はT字形で、雌穴の方は逆L字形に造っている。
 石室用材は能登島に産出する安山岩室板石である。

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 このT字形の石室を持つ雄穴に入っていく。

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 全長約7メートルの羨道部の突き当たりがT字型に分かれているのである。
 T字型の確認をした後、やや規模の小さい雌穴の方にも入って、逆L字形の確認をした。
 両方の穴とも、横穴が石室の長辺に接続し、石室の天井部は隅三角持送技法によりドーム状になっており、日本の古墳には例が少ない高句麗式の構造を備えていた。

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 石室から出ると、正面には七尾湾の絶景が広がり、やがて海は日本海へと繋がる。
 この古墳の被葬者は判っていないが、日本書紀には660年に越国守の阿倍比羅夫が二百隻の船団を率いて蝦夷地(現在の東北・北海道)に遠征した際、能登臣馬身龍が戦死したと記されているので、馬身龍の墓ではないかと推定されている。

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 能登は日本地図を大陸方向から眺めればこのようになり、大陸に最も近い日本の国の表玄関であることが一目で理解できる。
 須曽蝦夷穴古墳ができた時代は、日本にとっても朝鮮半島にとっても激動の時代で、百済は660年に滅亡し高句麗は668年に滅亡、日本は白村江の敗戦後律令国家への道を歩くことになる。
 朝鮮半島は統一新羅の時代となり、国を無くし朝鮮半島にいれなくなった人々は能登に渡ってきて、この古墳の建設に携わったということは考えられる。

 いずれにしても、日本海を挟んで向き合う国々とは古来から密接な交流があり、渡来人や漂流者も数多くこの地にたどり着き、能登半島先住の方々との混血も継続して行われ、彼らは現日本人の血の一部になったと推察される。
 高句麗との関係は特に密接で、570年頃には能登の道君(越の国造)が高句麗の使節を隠匿し、使節の貢物を私物化していた。
 この頃以降、高句麗使節の来着が活発化したという。
 雄大な日本海を眺めての、壮大な話であるstrong>。

2019年「尺山女」釣りのスタート その1 「尺山女」(k)

  このところ、赤ちゃん山女や幼稚園山女と遊んでばかりいるので、そろそろ大人の山女と遊びたいと考えている。
 出来れば尺山女といきたいところだが、釣り師にはその実績もこれからの見込みもまったくない。
 釣り師は、山女釣り師を自称しているが、今までに尺山女を釣り上げたことは一度もない。
 今までの山女のベストは、2001年9月24日に中継川で釣った「泣き尺」の29.5cmが最高である。(残念ながら2004年以前の写真が何処かに行って、記録だけはしっかり残っている。)
 次が、2019年6月26日、つまり令和に入って釣った一部銀毛化した山女である。
 女川最下流の集落である桂集落上流部で釣り上げたが、同じく「泣き尺」の28cmである。

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 最初はウグイがかかったかなと思っていたが、もし山女だったら悔しい思いをするので、慎重に対応した結果、なかなか上にあげられなくて、取り込みに5分以上かかってしまった。

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 黄線上を上のように流して、黄☆印のところで山女が食いついた。

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 三番目のサイズが、2006年6月18に釣り上げたこの27cmで、ほとんど銀毛化した山女である。

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 大石川支流小川の大堰堤下の淵で釣り上げたが、この淵では26cmの山女がもう1匹釣れた。
 山女の最長のベストスリーがこういうサイズであるが、ヤマメは平均寿命が短く通常は2年もしくは3年で、どうしても小型が多くなり、尺山女まで成長する山女は貴重な存在となる。

 ちなみに、ある研究所で山女を好条件で養殖してみた結果があるので下記に示す。

 2006年11月21日    ヤマメの卵が研究所に到着
 2007年1月8日     体長は2cm程
 2007年3月12日     大きなものは7~8cm
 2007年5月27日     大きなものは体長10cmを越える。
 2007年9月7日     大きなものは25cmを越える。
 2007年10月21日    ヤマメの卵が到着して11ヶ月目、大きなものが30cmを越える。

 つまり、山女は生育するに適当な好条件(川の温度と豊富な餌)を与えられると1年未満でも尺山女に到達するのである。
 ただ、その条件を満たす川は自然の中では希少ということで、実際はなかなか尺山女には出会えない。
 尺山女についてネットで調べると、面白いブログがあった。
 「尺山女を釣るのは9月がいい」と書いてあった。

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 秋ノ宮温泉新五郎湯に投宿した釣り師の話である。
 秋田県の役内川では例年5、6月になると下流から稚アユが昇って来るが、ヤマメがこれを食い出すと、急成長して20センチ後半サイズの個体が2、3カ月で尺ヤマメになるという。

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 それは役内川に限ったことではなく、アユが遡上する川では毎年起こっている現象だという。
 釣り師の常釣場となっている女川もアユが遡上する川で、役内川のような状況は十分考えられるので、今まで一度もトライしたことが無かった「尺山女釣り」を9月に試みることにする。
 これから行う7月と8月の女川での山女釣りは、9月の「尺山女釣り」の事前練習となる。

東京散歩Ⅱ その10 芭蕉 矢立初めの地「千住大橋」を訪ねる

 午前8時40分頃に両国駅から総武線に乗った。

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 総武線で秋葉駅まで行き、そこからまた乗り換えである。
 秋葉原からは山手線で上野駅まで行った。

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 上野駅から少し歩いて、京成上野駅から午前9時頃の京成本線の電車に乗り換えて、午前9時20分過ぎに千住大橋駅で降りた。
 駅から15分ほど歩いて千住大橋まで行った。

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 この橋のたもとに大橋公園が有り、ここに松尾芭蕉と曾良が「おくのほそ道」出発にあたって初め詠んだ一句(矢立初めの地)を記念して石碑が建っていた。

 矢立の句は、「行く春や鳥啼き魚の目は涙」である。

 芭蕉一行は元禄2年3月27日(新暦1689年5月16日)に江戸深川にあった芭蕉の草庵である採荼庵を出発し、船に乗って千住まで来てここから歩いて「おくのほそ道」の旅に出たのだった。

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 千住大橋の下に降りてみた。

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 ここには「千住大橋際歴史資料空館」という名のちょっとした広場があって、壁面などに「おくのほそ道」関連の記事や絵が描かれていた。

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 更に左方の「千住大橋際歴史資料空館」の壁には、初代広重の「1856年成立の千住大橋近辺を描いた画」が一番手前に、中程には葛飾北斎の描いた「荷を背負った馬と人が千住を歩いている画」が描かれていた。

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 一番奥には河番付や橋番付まで書かれていた。

大阪散歩 その29 西行墓(西行墳)にて 

 西行堂でしばらく休んでから、西行墓(西行墳)を目指して石畳の急坂を登っていく。

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 実は去年の春桜の終わる頃に吉野山を旅したことがあり、奥千本にある西行庵まで行って西行を偲んでみたかったのだが、土日しかここまで行くバスが運行して無いということで、残念な思いをしたことがある。
 今回西行終焉の地である弘川寺を訪れる機会を得たことは千載一遇のチャンスで、心を弾ませながら西行堂を見学し、期待に胸を膨らませながら西行墓(西行墳)への道を歩いている。

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 そしてどうやら西行墓(西行墳)のある目的の場所へ到着したようである。

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 まず、近くにある似雲墳に行った。
 ここには似雲について先回書いたようなことが説明看板に書かれていたので、似雲墳については記載は省略する。

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 似雲墳の反対側に何かあるようなので、そちらを目指して歩いていく。

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 そして、ここが西行墓(西行墳)、念願の西行の墓に到着である。
 説明看板を読んでみたが、文治6年(1190年)2月16日、73歳で亡くなったことなどが記されていた。

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 しかし実際のところ、あの似雲が西行の墓だと推定してここを祀っていただけで、ここに西行が本当に葬られているかどうかは誰にもわからない。
 この円墳の周りを廻ってみる。

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 西行は平安末期の人で武士の出で北面の武士などもしていて、保元平治の乱や平家の盛衰などを目の前で見てきた人で、源頼朝とも鎌倉を旅した時に関係が出来、
 頼朝に宮中のしきたり等を教えたことが、司馬さんの「街道をゆく 三浦半島記」に記されている。
 円墳を一周して、再び似雲について考えている。

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 似雲にとって西行は、理想の人であり目指すべき目的となる人である。
 西行に近づくために、西行の全てを真似て生活し、「西行のそっくりさん」としての人生を自分の人生として選び、西行になりきり、西行の墓守をして一生を過ごした似雲のような人は、よく見ればどこにでもいる。
 「本物」と「そっくりさん」をどう捉えるかということだが、幸せという尺度で考えてみれば、似雲程幸せな人生を過ごした方はいないのではないかと思った。

近江街道をゆく その29 彦根城下を散策  

 ガイドと別れ、これから城下町を散策ということになるが、まず赤字1の四番町スクェアで昼食、それから赤字2、3、4の順に街を廻る。

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 四番町スクェアは彦根市場商店街が前身で、商店街の再開発を策定し、大正時代の町並みをイメージした商店街が2006年5月に完成したのである。

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 こんな看板が出ている街の中に入っていく。
 この街の食堂で、ひこね丼というものを食べた。

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 「ひこね丼」は彦根のB級グルメで、彦根市制75周年記念事業により誕生した近江米と地元の食材を使った丼である。
 具体的には牛スジと赤こんにゃくを使った丼で、なかなか美味しい丼だった。
 昼食後、まず赤字2のスミス記念館に向かった。

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 この記念館は、日本聖公会彦根聖愛教会の牧師で彦根高商の英語教師でもあったパーシー・アルメリン・スミス氏が両親を記念し、大工宮川庄助氏と協力して城町の堀端に建設した建物。

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 外観は寺社建築を模しながら、梁や扉には葡萄や十字といったキリスト教の文様が刻まれた独特の和風教会堂として貴重な建築となっている。

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 次に、俳遊館に行った。
 俳遊館は滋賀県の淡海文化市町村推進事業の助成をうけ、大正時代の旧銀行を改装した建物で、1996年11月の開館である。
 江戸期には松尾芭蕉が度々彦根を訪れ、ここでは彦根藩士で芭蕉門下の蕉門十哲に数えられた俳人の森川許六(1656-1715)等を紹介している。

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 この日は、「井伊直弼ゆかりの地と和歌」というタイトルで展示がされていて、地元俳句会の定例行事も行われていて、早々にここを出た。


能登(日本道)への道 その8 能登島ドライブの旅の始まり

 院内勅使塚古墳を見終えると、昼食のために七尾市街に戻った。

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 昼食は上地図の能登食祭市場である。
 この市場の正式名称は七尾フィッシャーマンズ・ワーフ・能登食祭市場といい、七尾市の姉妹都市であるモントレーが位置するアメリカ合衆国カリフォルニア州の沿岸都市に多く見られる観光地「フィッシャーマンズワーフ(漁師の波止場の意味)」を参考に建設された。

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 外観はこんな建物で、日本海で水揚げされた魚介類を販売する能登生鮮市場、能登の名産品や工芸品などを販売する能登銘産・工芸館、能登の祭を紹介する模型や写真を展示する能登祭歳時館、シーフードレストランや和風レストランなどがある能登グルメ館 が入っている。

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 この能登グルメ館の海鮮類を使った食堂で昼食を食べた。

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 食べたのは、この1200円の海鮮ちらし丼で、新鮮でとてもおいしかった。
 昼食を食べ終えると、今日の午後からは能登島ドライブの旅となる。

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 能登島は七尾市の七尾湾を塞ぐ形で浮かぶ島で、面積46.78km2、周囲長71.9kmの島である。
 能登半島の近くにある本州最大の島である佐渡島の面積854.76km2、周囲長262.7kmと比較すると格段に小さい島だが、佐渡と同様に海岸線の風景の美しい島である。
 観光の場所としては、石川県能登島ガラス美術館、能登島ガラス工房、須曽蝦夷穴古墳、のとじま水族館、ひょっこり温泉島の湯、株式会社能登島マリンリゾートなどがある。

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 能登食祭市場からレンタカーで走って、和倉温泉の横を通り、この能登島大橋を渡って、30分ほどかけて能登島に到着した。

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 島で最初に目指すのは、須曽蝦夷穴古墳で、この古墳にたどり着きそこを散策することが、能登島ドライブ最大のメーンイベントとなる。

東京散歩Ⅱ その9 旅の前半の基地 「両国リバーホテル」に宿泊

 「岡倉天心記念公園」で「谷根千」の旅を終え、日暮里駅から山手線に乗り上野駅で一旦降車してコインロッカーからリュックを出し、再び山手線に乗って秋葉原駅まで行った。

 秋葉原駅から総武線に乗り換えて両国駅で降車した。

 両国駅から歩いて1分(もう少しかかるかな)程のところにある「両国リバーホテル」が、今夜から4日間の宿となる。

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 このホテルの近くには様々な飲食店が並んでいて、ここで過ごした間は食事のことで悩むようなことは一度も無かった。

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 夕食はホテルから数軒ほど離れたところにある「香港楼」という中華料理店で、800円の肉野菜定食を食べた。

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 本格的な中華料理店なので、ここの肉野菜定食はとても美味しかった。

 すぐ旅館に戻って、缶ビールを飲みながら明日の旅の計画を再点検した。

 このホテルは隅田川に架かる鉄橋のすぐ近くに立地しているため(こういう理由がわかったのは2日後に隅田川のリバーサイドを散策してからのこと)、電車が鉄橋を渡る旅に7〜8秒川面に反響して大きな騒音が出るので、日付が変わって電車が終電となるまで音が部屋に響いて来て、この音に慣れる頃にはここを出る日となっていた。

 そんな夜を過ごして二日目の朝をむかえ、1階の食堂で朝食となった。

コンビニで朝の食事をとるのが煩わしかったので、簡素ではあるが無料で軽朝食が付いている宿泊プランは大変便利だった。

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 今日は和食で、おにぎりが主食のこんな簡素なメニューの朝食となったが、この後の三回の朝食も、ほぼこれと変わらない程度だった。

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 ここがホテルの玄関前のロビーで、1日の間にここを何回も出たり入ったりして生活した。

 これから二日目の旅に出る。

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 これが今日の日程、午前中は松尾芭蕉ゆかりの北千住を散策、午後からは寅さんの葛飾柴又を散策する。

大阪散歩 その28 弘川寺の西行堂まで歩く

 昼食後、西行法師終焉の地で彼の墓のある弘川寺へ向かった。

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 距離にして13km、時間にして30分程かかった。

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 ここは弘川寺本堂である。

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 ここの目当ては何といっても西行の墓であるが、この矢印の方角に進むと西行墳(墓)、西行堂、似雲墳などに辿り着くので、矢印の示している山道を登っていく。

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 似雲墳にも行くことになるので、ここで似雲という僧を簡略に紹介する。
 似雲(1673年2月18日~1753年8月6日)は、江戸時代中期の浄土真宗の僧で歌人である。
 彼は西行に憧れ西行のような人生を歩きたいと願って、西行が息を引き取ったとされるこの弘川寺に庵を構え、西行のような生活を生涯行った。

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 同時に似雲はこの弘川寺のどこかに西行の墓があるのではないかと推測し、一生懸命探してとうとう西行の墓を発見し、その後は西行墳の墓守をして人生を過ごし、死後は彼の墓も西行の墓の近くに建てられた。

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 似雲のことを考えているうちに、似雲の建立した西行堂に到着した。
 今度は西行のことであるが、彼は平安末期の歌人である。
 名門の出であるが西行はエリートコースを捨て、23歳の若さで出家し、日本各地を放浪した。

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 彼の歌の中では、「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」が一番有名である。
 この和歌の意味だが、「できるなら二月の満開の桜の下で、しかも満月の頃に死にたいものだ」というようなものである。
 ところで、2月15日はお釈迦様の命日である。
 願い通り西行は、1190年2月16日、彼の願った日よりたった一日遅れて亡くなったのである。
 急坂を登って来たので、この西行堂でしばらく休んで呼吸を整えた。

近江街道をゆく その28 絶景の彦根城と玄宮園をゆく

 これから天守を下って、第四代彦根藩主井伊直興によって造営された江戸時代の大名庭園である玄宮園に向かって歩いていく。
 その途中でガイドが立ち止まって、要所要所の見所を説明していく。

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 ここが、先ほど天守から説明のあった搦手門(からめてもん)である。
 実際に門があった当時は、ここを人一人がやっと通り抜けて城から脱出していったのだろう。

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 城を下っていく途中で、ガイドが薦める最も石垣の美しく見える場所から、時代の経過とともに枯淡の味わいとなった彦根城の石垣を、しばし仰ぎ見た。

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 ここもガイドは搦手門(からめてもん)と説明していたが、この彦根城の北側を守る門は全部で五箇所あったという。
 とにかく、城を守るための仕掛けは複雑だったようだ。

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 ここは黒門という門があった場所である。
この門があった場所を通り抜けて、これから玄宮園に入る。

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 玄宮園は江戸時代初期の1678年に彦根藩4代藩主井伊直興が整備し、1813年には第11代藩主井伊直中の隠居屋敷として再整備され、今日に近い形に整えられたといわれる。
 玄宮園の位置は城内の北東部で内濠と琵琶湖の入江に挟まれた第二郭と呼ばれる曲輪内にあり、築城当初は重臣川手主水の屋敷が建てられていた。
 園内は中国湖南省の洞庭湖にある玄宗皇帝の離宮庭園を参考に、「瀟湘八景」を「近江八景」に置き換えて作庭されたといわれている。

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 ここがガイドの推薦したNO1のビュースポットで、天守を借景に実に美しい玄宮園風景となっていて、この絵はそのまま観光カレンダーに使えそうである。
 玄宮園は、天守を借景として中心の入り組んだ池には4つの島と9つの橋が架かり、畔には臨池閣、鳳翔台、八景亭などの建物が配されている。

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 このNO1風景を心に刻んで、ここでガイドとお別れした。

能登(日本道)への道 その7 院内勅使塚古墳へ

 実際には行かなかった七尾城跡の代わりに、七尾市街地から南南西へ6km、JR徳田駅から徒歩5分の位置にある院内勅使塚古墳に行った。

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 車で20分ほどでJR徳田駅に到着、駅で電車待ちをしていた七尾東雲高の生徒と思われる男子高校生達に院内勅使塚古墳までの道順を聞き出して、さっそく歩き出した。

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 こんな王朝時代の香りのするようなのんびりした田舎道を100m程歩くと、そこに院内勅使塚古墳があるという。
 古墳の存在は江戸時代から知られており、「能登志徴」に「飯川の穴倉」として紹介されているとのこと。

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 歩くこと100m程で、院内勅使塚古墳が見えてきた。
 昭和44年の七尾市史編纂事業にかかる墳丘・石室の実測および周溝の確認調査により、古墳は一辺約23m、高さ3.7m、墳丘が二段の方墳で、幅約6mの周溝があることがわかった。
 石室が発掘されているということなので、そこまで歩いていく。

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 石室の見える位置まで歩いてきた。
 石室は長さ約12m、幅約2m、高さ約2mで、30個以上の巨石を組み合わせて構築されている。
 造りを見ると蘇我馬子の墓とされる7世紀初頭に築造された石舞台古墳に似ており、この院内勅使塚古墳は発掘された須恵器などから、古墳時代の終末期にあたる7世紀前半ごろ築造されたと推定されているので、石舞台古墳と同じ技術で造られたのだろう。

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 中に入って見たが、石舞台古墳より小さいがそっくりの造り方がされていた。

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 類似する古墳を見てもわかるとおり、当時の大和朝廷は能登地方にも勢力を広げていて、その支配下に置いていた。
 能登半島は当時日本国の玄関口として、高句麗やその末裔が造った渤海国と使節団の受け入れや交易などを行っていて、大きく言えば大陸や朝鮮半島の玄関口となっていたのである。
 この古墳の築かれた時代には、七尾湾沿岸の海岸段丘上に小規模の古墳がたくさん造られ、その中でもこの古墳は群を抜いた規模であり、それらの中心的存在であった。
 なおこの墓の被葬者だが、能登の国造(であった能登臣(のとのおみ)氏の可能性が考えられている。

東京散歩Ⅱ その8 「谷根千」散歩で「岡倉天心記念公園」まで 歩く

 「古井戸」の次に道に迷いながらも近くの住人に聞いて、谷中の超有名店である「ねんねこ屋」への坂道に辿り着いた。

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 坂道を5分程上ると、「ねんねこ屋」に到着である。

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 ねんねこ屋はネコ好きにはたまらない店で、店の外観も中もネコのアクセサリーで溢れかえっている店である。

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 ここで小休止ということでラムネを買って、二階の休みどころに上げてもらって、ラムネを飲みながら階下を行く人たちや景色をしばらく眺めた。

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 僕と入れ替わりに白人の三人の女性もここで小休止をしていた。
 このあたりに住んでいるのか、それとも単なる旅人なのか気になったが、一言二言気楽な会話を楽しんで、そのままここを去った。

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 ここは「大名時計博物館」で、美術工芸品として作られた日本独特の時計を展示しているのだが、今日はあいにく休館だった。
 このあたりが一番高い場所で、ここから坂を下っていく。
 3〜4分歩くと外国人観光客が多く宿泊する「澤の屋旅館」に出る。

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 先ほどの白人女性3人組も、おそらくここに宿をとっているのだろうと推測した。
 「澤の屋旅館」からこの「へび道」と名が付いている道路を通って先を急いだ。

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 この道は、昔は藍染川という川で、文京区と台東区の境目になっていた。

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 へび道を出たところに「乱歩」という江戸川乱歩好きのマスターが営むコーヒー店があるが、ここも今日は休日だった。

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 「乱歩」から5分程歩いて、「谷根千」散歩の終着点である「岡倉天心記念公園」に到着した。
 ここは谷中の岡倉天心宅跡で、旧前期日本美術院もここにあった。
 この場所に建てられた日本美術院は明治31年9月に竣工した木造二階建で、南館(絵画研究室)と北館(事務室・工芸研究室・書斎・集会室)からなり、附属建物も二、三あったといわれている。
 明治39年12月に美術院が茨城県五浦に移るまで、ここが活動の拠点となっていた。

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 「岡倉天心記念公園」は期待していたよりも遥かに貧弱で、敷地の面積の狭さに岡倉天心の熱狂的ファンを自認している僕は、言葉を失うほどガッカリしてしまった。
 終着点となった場所には写真の右手に1966年に岡倉天心史跡記念六角堂が建てられ、堂内には平櫛田中作の天心坐像が安置されていた。

大阪散歩 その27 観心寺境内のお堂を見てから昼食

 このあと、観心寺境内にあるお堂をいくつか回った。

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 ここは建掛堂である。
 建武中興の無事を祈って楠木正成が願主となり三重塔を建立しようとしたが、湊川戦役のため建立できず、初重で中止となったもので、内部に大日如来を安置している。

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 ここは開山堂(本願堂)である。
 観心寺の開祖を祀るお堂で、空海の弟子でこの寺の開祖となった道興大師実恵を祀っている。

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 そしてここが、楠正成の首塚である。
 楠正成は湊川の戦いで足利尊氏に敗れ自害し、正成の首はここに祀られた。
 楠正成は水戸史観が天皇に対しての忠誠心の象徴として、神聖英雄としてかつぎだされた人物で、幕末から明治期を経て戦前まで、正成の聖地である河内は高貴な山河であり、正成が坂東の大群と戦った金剛山、赤坂、千早城といった地名群は国家的な聖地ですらあったという。
 空海と楠正成のことを考えながら、観心寺境内を急ぎ足で30分程巡った。
 いつの間にか時間が正午を過ぎていたので、寺関係の女性の方にあらかじめ聞いていた古民家を改造したレストラン「おとぎ屋」に向かった。

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 寺の方は「すぐそこですよ」みたいな感じで言っていたが、結局かなり急ぎ足で10分以上あるいて、ようやく到達する程離れた場所だった。

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 二人の中年の女性がちょうどここに入るところで、僕も彼女たちの後について古民家レストラン「おとぎ屋」の敷地内へ入った。

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 敷地内はまったくの普通の古民家である。

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 普通の日本家屋の座敷風な部屋で待つこと15分ほど、贅沢で美味しそうなランチが出てきた。
 値段は1300円、値段相応の味だと感じた。

近江街道をゆく その27 天守にて

 天守に入り、天守から北の方角を眺めた。

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 森の向こうの広大な平原は、城の建てられた当時は琵琶湖の内海だった。
 遥か向こうに山脈がありその一部が途切れているが、琵琶湖から途切れている場所を抜けて帆かけ舟が城に入ってきて、お殿様はその光景が大好きだったという。
 そういえば司馬遼太郎は「街道をゆく 近江散歩」の中で、中学生の頃に安土城に登った時の印象を書いていたが、城の眼前には湖が広がっていたという。
 それが近江散歩で再び安土城を訪れた時には、目の前には陸地が広がっていてがっかりしたという。
 戦後の食糧難時代の中で、「緊急食料増産計画」に基づいて、戦後昭和21年に琵琶湖の干拓事業が始まったという。
 その結果、安土城の前には陸地が広がり、その光景と同じように、この彦根城下もこのような風景となったのである。

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 僕がそのことに触れると、ガイドは待ってましたとばかりに資料を広げて、それから安土城の話となった。
 普通の山城は周りをほんの少しの石垣で囲っているだけだが、安土城は周りを高い石垣で囲った鉄壁の山城で、ある日突然石垣の塊が山の上にできたのだという。
 城は比叡山の方角に向かって建てられていて、信長が何を考えていたかわかる。
 信長は琵琶湖の舟運をこれから重要になる交通手段ととらえ、それに向けて安土城を瞬く間に建てたのだった。
 同様のことがこの彦根城にも言えるようで、城の後ろの街道よりも、城主は琵琶湖の交通を重視していたのだ。
 石田三成も同様で、佐和山城は琵琶湖に向かって開かれていて、城の表門は琵琶湖を見て建っていたという。
 織田信長やその家臣程度の武将には、この位の先見の明は備わっていたようである。

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 この後、天守の別の方角から、搦手門(からめてもん)のあった方角を眺め下ろして、搦手門の説明となった。
 この門は城門の一つで、せいぜい人一人が通り抜ける程度で、有事の際には領主などはここから城外や外郭へ逃げ、舟に乗って琵琶湖へ逃れたという。
 1階下に降りて、今度は梁の話である。

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 通常の梁は長い梁が1本で、その下の太い柱を中心に城の加重を支えているのだが、この梁は二本の梁を重ねていて、加重はこの梁で受けていて、柱は梁に比し極端に細くなっている。

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 こんな梁を使って、彦根城の天守はできあがっていた。

能登(日本道)への道 その6 七尾城跡前で 

 近くにいた人に聞いたら車で10分ほどでいけるという七尾城跡や城山展望台だが、レンタカーを完全に把握してないこともあり、理性が慎重に行動することを要求したので、今回は城跡へ行くのはやめて、懐古館や七尾城史資料館を見るにとどめた。

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 懐古館は旧飯田家の建物である。

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 約200年前に建てられた茅葺き民家で、戸を取り払うと大広間になる間取りも能登の民家の特徴で、この造りは冠婚葬祭などの行事に役に立っていた。

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 太い松の梁や欅の柱は、深い雪を支えるだけでなく、その威勢をも示している。
 七尾城史資料館にも入ったが、資料館のことは省略とする。

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 資料館の前には、高橋掬太郎作詞で三橋美智也が歌った古城の詩碑が建っていた。


  松風騒ぐ 丘の上

  古城よ独り 何偲ぶ

  栄華の夢を 胸に追い

  ああ 仰げば佗びし 天守閣


 この有名な歌の碑がなんでここにあるのか、後日ネットで調べてみた。
 古城のモデルについては「作詞者の高橋掬太郎は、特定の城を歌ったものではないと述べている」という意味の記載があり、古城は七尾城を歌ったものではないとのこと。
 ただ七尾城史資料館の落成当時この古城が流行っていたこともあり、歌詞が七尾城をほうふつさせるものだったので、資料館建設関係者が作詞者の高橋掬太郎氏の許可を得て、ここに建設したとのことであった。
 その七尾城には前記の事情で行けなかったので、これもネットから情報を拝借して、七尾城跡と城山展望台からの絶景を紹介する。

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 これは七尾城跡に立つ石碑である。

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 こっちは、城山展望台からの七尾城下の絶景である。
 七尾城は、畠山氏の初代当主で能登国守護の畠山満慶が正長年間(1428年~1429年)頃にこの地に築いたと思われる。
 その後次第に拡張増強され、以後約150年間にわたって領国支配の本拠となり、五代当主畠山慶致の頃には守護所も府中(七尾城山の麓)から七尾城へと移され、畠山義続・畠山義綱の頃に戦乱に備えるため増築され最大の縄張りとなった。
 この頃は山麓に城下町千門万戸が一里余りも連なり、山頂にそびえる七尾城の威容は天宮とまで称されたと記録に残っている。
 陸の風景は変わってはいるが、海岸線や海の風景はその頃といくらも変わらないのだろう。

東京散歩Ⅱ その7 「赤塚ベッ甲店」から「古井戸」まで

 引き続き「谷根千」を歩いている。

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 ここは「赤塚ベッ甲店」で、昭和41年の創業以来高級なべっ甲の眼鏡フレームなどを作っている店舗兼工房。
 ここで制作体験もできるとのこと。

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 手前の「愛玉子」という店はスイーツの店で、愛玉子はオーギョーチと読む。
 愛玉子は台湾でしか採れない果実で、これを寒天状に固めてシロップで固めて作る。
 散策の休憩に立ち止まって食べてみたかったが、先を急いだ。

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 しばらく歩くと「台東区立下町風俗資料館」があったので、中に入った。
 ここは江戸時代から谷中6丁目で酒屋を営んでいた吉田屋の建物を移築した台東区の管理する下町の風俗を展示している資料館である。

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 屋内には酒屋時代に使っていた看板や調度類や衣類などが展示されていた。

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 下町風俗資料館から10分程歩くと、この辺りのランドマークとなっている「谷中のヒマラヤ杉」が見えてきた。

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 近くに寄ってみると、みかどパン店前に大きなヒマラヤ杉が根を張っていた。
 このヒマラヤ杉はみかどパン店が戦前から鉢植えで育てて巨大化した杉だとのこと。

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 この風景は「美しい日本の歴史的風土100選」に選ばれていて、近くにある玉林寺の塀に観光用として作られた「谷中のヒマラヤ杉」のポスターが貼ってあった。

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 玉林寺の細い小路を抜け階段を下りると、その下に「古井戸」があった。
 この井戸は現在でも使われている現役井戸だが、個人所有のため滅多に使われていないとのことである。

大阪散歩 その26 北斗七星を巡る

 この星塚は、厄除け・福寿増長のパワースポットとして有名で、日本で唯一の北斗七星の巡礼地である。

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 実際の配置は、上図の黄線で結ばれた通りの形態である。

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 ここはどうやら、中国式の北斗七星の呼び名で呼ばれているらしい。
 左方から時計回りで、1貧狼星(トンロウセイ)、2巨門星(キョモンセイ)、3禄存星(ロクソンセイ)、4文曲星(モンコクセイ)、5廉貞星(レンジョウセイ)、6武曲星(ムコクセ イ)、7破軍星(ハグンセイ)となっている。
 巡礼の仕方は、まず金堂を参拝、それから金堂前の石段左側から時計周りに星塚を回って一つ一つ合掌・礼拝し、最後に金堂前の石段右側にいる鎮守神、訶梨帝母天(かりていもてん)を参拝して締めくくるのである。
 儀礼どおりにこの星塚を、左方向から歩いてみた。

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 1番目、2番目と来て、ここは3番目の星塚で、禄存星(ロクソンセイ)と書いてある。

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 ここは4番目の星塚で、文曲星(モンコクセイ)と書いてある。

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 ここは5番目の星塚で、廉貞星(レンジョウセイ)と書いてある。

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 順に廻ってきて、ここは6番目の武曲星(ムコクセイ)である。
 けっこうアップダウンがきつくて、厄除け・福寿増長のパワーを頂くのは、そんなに簡単ではないことを思い知った。

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 平場に降りてきて、ここが最後となる7番目の破軍星(ハグンセイ)である。
 破軍星と聞くと、これはもう中国三国時代の蜀の国の諸葛亮孔明の世界である。
 「破軍星の方向に向かって戦いを挑めば必ず負け、破軍星を背にして戦えば必ず勝つ」と言うもので、実際に孔明が編出したものではないと思われるが、 当時の戦いにおいて「戦いは吉と出た。天は我等に味方している」と兵の士気を鼓舞する手段として、その後日本でも使われたようである。

近江街道をゆく その26 彦根城天守に立つ

 ガイドと楽しくブラタモリ風に見学しているうちに、目指す天守が近くなってきた。
 ただ、なかなか目指す天守は目の前に現れてこない。

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 こんな坂がけっこうだらだらと続いていく。
 ガイドはこの坂を左に曲がって、先ほど見た天秤櫓の中に入った。

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 ここでも、ガイドは天秤櫓についていろいろと詳細に説明してくれたが、そのことはここでは省略する。

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 天秤櫓を出てまた階段を上がっていくと、ようやく天守が見えてきたが、まだまだ先は長そうである。

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 そしてようやく表門である。
 ここを入っていくと、その前は、またまた坂である。

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 この階段を上がりきると、そこがようやく天守となっているのだという。
 敵の攻撃から殿様を守るのが城なのだから、合理的な設計なのか、それとも不合理な設計なのかの論議では無く、目的のために造られたということなのだろう。
 そして階段を上がるとそこは広場となっていて、予想とは格段に違って小さく見える天守が僕らを待ち構えていた。

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 この天守の前に、最初は僕らが先ほど通り抜けてきた表門があって、その後先ほどの位置におかれたのだという。
 この広場にも諸施設があったようで、それらのものを前にして城を見ると、こんなふうに小さくは見えなかったのだという。
 天守の石垣は牛蒡積みの三層建てで、この面を短径とする長方形である。

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 そしてここでまた新たな彦根城の建築の特徴についての話となる。
 彦根城は、破風(切妻造や入母屋造の屋根の妻の三角形の部分)を合計18個造って建ててあり、そこにはいろんな破風の組み合わせがあって、見る角度によって城の表情が違ってくるという。
 一番上の破風は唐風で造ってあり、そこに造られている縁側は飾りで、外には出られない造りなのだという。
 この後ガイドは、自分の好きな表情をしている天守の見える位置まで僕を案内してくれた。

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 この面は、先ほどの江戸を向いているシンプルな面と違って琵琶湖方向を向いていて、敵を威嚇している造りとのことである。
 ここからの彦根城は、ガイドの推薦通りの、実に威風堂々とした表情をしていた。

能登(日本道)への道 その5 国守の印と、正倉を祀る印鑰(いんにゃく)神社を見学(k)

 印鑰神社の次に、30分ほどかけて能登国分寺跡に向かった。

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 この黄矢印の地点の能登国分寺公園内に能登国分寺跡がある。

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 まず能登国分寺展示館に入って、国分寺跡の概要を知り資料等をいただいた。
 能登国分寺は、かつてこの地方を支配していた能登臣(のとのおみ)の一族が白鳳時代末に建てた大興寺を、843年に国分寺として昇格させたものである。
 能登国は、718年に越前国から羽咋郡、能登郡、鳳至郡、珠洲郡の四郡を分立して成立した。741年には越中国に併合され、この時に聖武天皇が国分寺建立の詔を発布している。
 しかし、能登国は当時かなり困窮していて、とても国分寺を新設できるような経済的な余裕がなかったようで、聖武天皇の詔が発せられてからなんと100年後に、既存の大興寺を昇格する形でようやく国分寺が創建されたという。
 能登国分寺展示館を出て、広大な国分寺跡を歩いていく。

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 これは国分寺公園案内図である。

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 能登国分寺跡と書かれた大きな石碑を見ながら、石碑の奥に建っている南門に向かって真っ直ぐに歩いていく。

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 この前に立ちはだかるのが、1千年前の姿そのままに遺跡の上に復元された南門と塀である。
 門の幅は8.4m、奥行き5.4m、高さは6.3mもある。

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 実際に近くで見ると、柱の大きさや迫力などは想像以上である。

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 ここは塔跡である。
 能登国分寺の塔は、一辺4.5m、高さ約25mの小規模な五重塔だったようである。

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 このように五重塔の礎石が置かれているが、中心部に置かれている茶色の石が塔心礎で、中央部に丸い穴が開いている。

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 ここは金堂跡である。
 金堂は、幅15m、奥行11m、高さ12m程の建物であったことがわかっている。

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 ここは、能登国分寺の裏門にあたる北門のあった跡である。
 20分ほど能登国分寺跡にいて、ここの散策を終えるが、事務のおばさんからいろいろと親切にしていただいたので、当時の建物の様子を想像しながら楽しく歩くことが出来た。

2019年 調子はずれのジュンチャンの釣り その4 「幸せ三点セット」で勝負

 さて、ここからは「幸せ三点セット」の勝負となる。
 まず、5月26日である。

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 この日の釣りはスカだったが、「温泉ゆーむ」はいつもの大当たりで、そこは極楽行きの時間となった。
 この世の幸せの一つをしっかり噛みしめたあと、二番目の幸せであるたっぷり和辛子が塗られた「串刺しの玉コンニャク」をガブっとやった。

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 今回の玉こんにゃくは醤油がたっぷり染みているので、夏の海岸で日焼けした健康美人のような肌色に見えた。
 食べ終わると、夏を独り占めしたような気分になり、心が夏ぞらになった。
 そして、最後の詰めの昼食の時間となる。

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 この日の昼食は味も店のサービスも、釣り師ジュンチャン好みといえる、あの「そば屋岩蔵」である。
 頼んだ品物は、もりそばと天ぷらで、二つ合わせて「天ざる」となる。

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 そばも天ぷらも、맛있어(masisseo)=delicious、つまりおいしかった。

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 もちろんこの天ぷらも一流で、そばに実によく合っている。
 大満足の昼食となった。

 次に6月9日である。
 同じようなことをしているが、微妙に違う。

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 この日は通常の釣行どおり、まず「串刺しの玉コンニャク」を最初にいただく。
 玉コンニャクの色は程よく健康的で、高原を散策しているような爽快な気分になった。

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 「温泉ゆーむ」も、この日は山奥の秘湯のような雰囲気が漂っていて、ゆーむから出た後は山から里に帰ってきたような気分になった。

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 そして、最後の詰めの昼食であるが、今日は、過去に数回入ったことのある自家製手作りうどんの店「こだわりうどん一(はじめ)」である。

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 ここで注文したのは、これも3~4回食べたことのある「新野菜黒カレー」、てっとりばやく言えば、「採れたて野菜入りカレーうどんデミグラソース味」である。

 
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 久しぶりに食べたので、今回はEspecially delicious=특히 맛있어=特においしいという、これも大満足の昼食となった。
 いったいぜんたいジュンチャンは釣り師なのか、それともただの美味しんぼなのか、時々本人ですらわからないことがあるが、この日はそんな日となった。

 今回の勝負は、「新野菜黒カレー」の評価が高かったということで、6月9日の勝ちとする。


 入れ食いを望むな。
 スカでがっかりするな。
 無駄な一日を恐れるな。
 幸せの種はどこにもころがっている。
 最後には、必ず「幸せ三点セット」が助けてくれる!(^^)!

東京散歩Ⅱ その6 谷根千散歩スタート、観音寺の築地塀まで

 これから谷根千を歩くが、当初は岡倉天心旧宅を中心に岡倉天心に関係する旧跡を巡る旅を考えていた。
 岡倉天心は明治時代を卓越した識見と天才としての歩みで駆け抜けた巨星で、その活動は美術分野に留まらず、僅か51年の人生の中で後世に残る大きな業績を沢山を残し、彼の偉大な精神遺産はその後も多くの日本人の中に受け継がれている。
 この岡倉天心の旧宅が谷中にあり、そこは岡倉天心の活動の拠点となった旧日本美術院の建っていた場所でもある。

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 当初は「岡倉天心研究会」という会の主催する講座の中の、上記のような「谷中の周辺を散歩する」企画に似たような旅を考えていた。
 しかし、それ程一生懸命調べる時間がなかったため、ネットで手軽に手に入れることができた【(株)ワイズクリエイトの「谷根千」の歩き方】を参考に谷根千を歩くことにした。
 それでは出発である。

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 コースはこのピンク色の道で、適当にカットしながら概ねこの道の上を歩いていく。
 ゴール地点は岡倉天心の旧宅(旧日本美術院跡)である。

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 まず、「東洋のロダン」と呼ばれた朝倉文夫のアトリエ兼住居を改装した美術館「朝倉彫塑館」である。
 ここは中へは入らず、外からここの外観をざーっと眺めて通り過ぎた。

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 また本通りに戻ったが、このような風景の道が続いている。

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 次に観音寺に入った。
 ここは赤穂浪士ゆかりの寺であり、境内には供養塔があった。

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 四十七氏に名を連ねていた近松勘六行重と奥田貞右衛門行高はこの寺で修業していた兄と弟だった。
 また通りに戻って観音寺の南側路地に入ると、築地塀が続く通りとなっていた。

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 この築地塀は谷中の象徴的存在となっているので、近くまで歩いて行く。

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 近くに寄ると良く分かるが、この塀は瓦と土を交互に積み重ねて作った土塀に屋根瓦をふいたもので、幕末の頃に作られたものと言われている。

大阪散歩 その25 「観心寺」に到着

 大ヶ塚を出て30分ほど走って、次に赤字2の「観心寺」に到着した。

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 観心寺は空海と楠正成に関係のある広大な境内を持つ、大きな寺である。

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 伝承では、701年に役小角(役行者)が開創し、当初、雲心寺と称したとされるが、この寺を実質的に開基したのは、空海の一番弟子にあたる実恵である。
 その後、808年に空海がこの地を訪れて北斗七星を勧請し、これにちなむ7つの「星塚」が現在も境内に残っている。(北斗七星を祭る寺は日本では観心寺が唯一)
 また、この寺は楠正成の菩提寺であり、南朝ゆかりの寺としても知られ、境内には正成の首塚がある。

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 ここは山門であるが、まずここから中に入っていく。

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 山門から真っすぐに参道を進むと、突き当りがこの国宝となっている金堂である。

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 この金堂内陣の厨子内に、平安時代密教美術の最高峰と言われ国宝に指定されている、秘仏「木造如意輪観音坐像」が安置されている。

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 この「木造如意輪観音坐像」のある金堂を取り囲むように、金堂の周囲に北斗七星の形で星塚が配置されている。

 

近江街道をゆく その25 彦根城博物館を見学(k)  

 彦根城は江戸時代初期に、彦根市金亀町にある彦根山に鎮西を担う井伊氏の拠点として置かれた平山城(標高50m)である。
 山は金亀山(こんきやま)との異名を持つため、城は金亀城ともいい、多くの大老を輩出した譜代大名井伊氏14代の居城であった。

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 彦根城の敷地は広く、外堀、中堀、内堀に囲まれていて、この内堀を眺めながら表門から城内に入った。

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 城内ではまず、彦根城博物館に入った。
 この博物館は彦根市の市政50周年を記念して1987年2月12日に開館した博物館で、開設に伴って井伊美術館は1986年11月30日に閉館し、収蔵品はそのまま彦根市に寄贈され、約2万点の井伊家に伝わっていた美術品や歴史資料などはこの博物館で展示されている。

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 博物館の敷地は江戸時代の彦根藩の政庁で明治時代に取り壊された彦根城の表御殿跡であり、建物は事業費約27億円を投じて当地に在った彦根城の表御殿を古絵図などから復元したもので、表御殿時代そのままに遺構が復旧保存されている。

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 ここは、藩主が用いた天光室と呼ばれた茶室である。

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 この庭園は池を中心とした池泉庭園という構造で、「御座之御間」という藩主の居間からの眺めを中心に設計されていて、庭には散策路が設けられている。

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 ここは、御客座敷と呼ばれた部屋である。
 復元された表御殿をざっと歩いて、展示室で開催されていた特別展の「コレクター大名井伊直亮-知られざる大コレクションの全貌-」を見ることにした。

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 井伊 直亮(いい なおあき)は近江彦根藩の第14代藩主(15代藩主、12代当主という数え方もある)で、江戸幕府の大老を勤めており、同じく大老となった井伊直弼の兄であり養父でもあった。
 彼は藩主を38年も務めたが、彼を有名にしているのは彼の膨大なコレクションである。

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 雅楽器の収集で知られている直亮だが、その収集対象は刀剣や甲冑、文房具、彦根更紗、博物関連資料、南蛮渡来品と幅広く、今回はそれらのコレクション合計136点が展示されていた。
 雅楽器は小さな物は篳篥(ひちりき)から始まり、笙、琵琶、箏、大きな物は太鼓・羯鼓・鉦鼓の三点セットに至るまで収集されていて、どれも装飾の蒔絵が非常に細かく施されていた。
 彦根藩には魅力的な藩主が沢山いたようだ。

能登(日本道)への道 その4 石川県立七尾美術館で長谷川等伯展を見学

 山の寺寺院群をさわりだけ散策して、これから石川県立七尾美術館に向かって歩いていく。

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 靴の調子も心配しながら、その後20分以上歩いて七尾美術館に到着した。

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 七尾美術館はドーム型の七つの屋根が特徴的な能登唯一の総合美術館で、能登にゆかりのある作品を中心に優れた作品を展示している。
 春には、桃山時代に活躍した七尾出身の画家である長谷川等伯(1539~1610)のシリーズ展を毎年開催しているという。
 今年は4月22日から5月28日の開催で、考えてもいなかった長谷川等伯展を、ここで見ることができた。

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 バスに乗る時間を午後4時過ぎに予定していたので、ここで見学する時間は50分ほどあり、第1展示室で、七尾美術館所蔵の池田コレクションや、能登にゆかりのある作家の作品を中心に鑑賞した。
 あとの展示室はすべて長谷川等伯展で、駆け足で彼の作品を見て回った。
 長谷川 等伯(1539年~1610年)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての絵師で、幼名は又四郎、初期は信春と号した。
 狩野永徳、海北友松、雲谷等顔らと並び桃山時代を代表する画人である。
 彼は七尾の生まれで、20代の頃から七尾で日蓮宗関係の仏画や肖像画を描いていた。
 当時の七尾は畠山氏の庇護のもと「小京都」と呼ばれるほど栄え、等伯の作品には都でもあまり見られないほど良質の顔料が使われている。

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 これは七尾時代の代表作「仏涅槃図」である。
 一般に仏画は平安時代が最盛期で、その後は次第に質が落ちていったとされるが、等伯の仏画はそのような中でも例外的に卓越した出来栄えをしめす。

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 これは、日蓮聖人画像である。
 等伯は何度か京都と七尾を往復し、法華宗信仰者が多い京の町衆から絵画の技法や図様を学んでいたと考えられる。
 1571年頃に上洛して狩野派など諸派の画風を学び、牧谿、雪舟らの水墨画に影響を受けた。
 千利休や豊臣秀吉らに重用され、当時画壇のトップにいた狩野派を脅かすほどの絵師となり、等伯を始祖とする長谷川派も狩野派と対抗する存在となった。

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 金碧障壁画と水墨画の両方で独自の画風を確立し、この展示作品である代表作「松林図屏風」(東京国立博物館蔵、国宝)は日本水墨画の最高傑作として名高い。
 晩年には自らを「雪舟五代」と称している。

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 1610年に江戸で没したが、代表作は他に「祥雲寺(現智積院)障壁画」(国宝)、会場に展示されていた「竹林猿猴図屏風」(相国寺蔵)などがある。
 大急ぎで展示室を回ったせいか時間が余ったので、ハイビジョンコーナーで七尾時代の長谷川等伯を収録したソフトを見た。

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 このバス停でしばらく待って、時間どおりに来た市内循環バス「まりん号」に乗って七尾駅で降車し、すぐ近くのホテルに向かった。

東京散歩Ⅱ その5 谷中銀座を散策、児童遊園で昼食

 午後から谷根千を歩く旅となるが、その前に谷中銀座の適当な店で昼食を食べようと、谷中霊園から15分程歩いて、谷中銀座前にある夕陽の名所となっている「夕焼けだんだん」まで来た。

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 この坂の上からは谷中銀座の街が実によく見える。
 坂を勢いよく下って、そのまま街の中に突入した。

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 街中は日本人の観光客も多いが外人の観光客も目立っていて、それよりも目立っていたのが「谷中ひゃっこい祭り」という幟旗だった。
 なんでも、一昨年まで夏のお祭り「谷中銀座祭り」が、昨年「谷中ひゃっこい祭り」にリニューアルされ、今年は2年目の祭りがもうすぐだという。

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 幟旗をじっくり見ると、今年の祭りは8月6日(土)、7日(日)の二日間行われる予定で、60本の氷柱が立ち並ぶ中で屋台が立ち並び、どじょう掴み取りや子供ビックリ市や盆踊りのような夏イベントが企画されている。
 その祭りの最中にここを旅したかったが、そううまくはモノゴトはいかない。

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 谷中銀座の適当な店で食事をしようと考えていたが、適当な店が見つからず、街外れの弁当屋でメンチカツ弁当とゆで卵を490円で買って、店の女主人に紹介してもらった近くの児童公園で昼食とした。

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 この児童公園は千駄木児童遊園という名で、ここで弁当を広げていたら同じようなお兄さんが向かい側に座って同じように弁当を食べだした。
 東京での最初の食事がアウトドアランチになるとは全く考えていなかったが、旅をしているとこんなこともある。
 その後谷中銀座の街を再び抜けて夕焼けだんだんを上り、そこから少し歩いて「喫茶ルノアール」に入った。

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 ここで560円のドリップアイスコーヒーを頼み、午後1時まで30分程足を休めた。
 旅の最初の日は足が1万歩以上歩くのに慣れていないので、いつものことだが両足のつま先部分が痛くなり、小休止が必ず必要となる。
 しっかり休んで、しっかり充電した。

大阪散歩 その24   「大ヶ塚」を歩く

 これから、司馬さんの「街道をゆく 河内みち」の世界を散策するが、まず赤字1の「大ヶ塚」、次に赤字2の「観心寺」、更に赤字3の「広川寺」、最後に赤字4の「高貴寺」に行く。

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 最初に赤字1の「大ヶ塚」を目指した。
 「大ヶ塚」は石川支流の梅川が東側を北方に流れる高台に位置していて、村全体が自衛のために一つの濠で囲まれた中世の環濠集落である。

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 「大ヶ塚」は実は「台ヶ塚」から転じたものと司馬さんは推測していたが、高台の下にレンタカーを駐車して20~30m上にある集落まで這い上ってみると、ここがまさしく「台ヶ塚」であったことが実感できた。
 「大ヶ塚」は南北朝時代に楠木氏一族により城が築かれ、室町時代後期には根来寺の僧兵の勢力が入り、織田信長により根来衆が敗退した後に、村人が自衛のために根来衆の大ケ塚道場善念寺を久宝寺顕証寺に依頼し顕証寺の通寺としたことから、顕証寺の寺内町が形成されたという。

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 集落の中心となる顕証寺入り口まで歩いていくが、左手の建物は既に顕証寺の外塀である。
 「大ヶ塚」は、江戸時代には水運により大坂と結ばれていたことから、河内木綿・米・菜種などの集散地として栄え、酒造業も盛んであったという。
 1689年には儒学者の貝原益軒が立ち寄り、「民家五百廿(520)軒あり」と南遊紀行に書き記している。

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 外塀の中ほどに入り口があったので、ここから中に入っていく。

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 中に入ると、環濠集落の中心となる寺だけにりっぱな造りである。

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 ここは寺の山門のようであるが、なんだか城の砦のようにも見える。
 村の自衛のために造られた環濠都市の中心施設なので、寺と言ってもいざとなればここに籠って外敵と戦う場所となるので、その目的のために造られている箇所が随所に見受けられる。

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 この本堂の軒下には半鐘が吊り下げられているが、「真宗寺院につきものの半鐘が、この寺に限っては村人に急を告げるための自衛上の目的ではないか」と司馬さんが「街道をゆく 河内みち」で書いていたが、この寺の周囲を巡ったり本堂を覗いたりしていると、司馬さんの推測がどうやら正解のようで、「要塞集落大ヶ塚」と言ってもけっして過言でないように僕には思えた。

2019年 調子はずれのジュンチャンの釣り その3 対決!5月26日の釣り対6月9日の釣り

 まず、5月26日の釣りだが、大石川は諦めて女川の小和田橋上流に行った。
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 最初の堰堤横の淵でまず釣った。
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 4~5回キャストして、可愛い15cm程の山女を釣った。
 さい先のいいスタートとなったが、その後の1匹が遠かった。
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 ここもまだ水量が多く水の勢いも山女に適正でなく、あたりすら無かった。
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 この淵では藤の咲くこの季節に何回か尺岩魚に近い岩魚を上げて相性のいい淵であるが、ここも10回近く粘って餌を流したが、小物のあたりがあっただけで、結局スカだった。
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 この淵はかって34cmの尺岩魚を上げた好ポイントで、期待して色々場所を変えて餌を流したが、ここからも岩魚も山女も出なかった。
 5月26日の小和田橋上流の釣りは、結局最初の可愛い山女1匹だけだった。

 次に6月9日の藤沢川の釣りである。
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 ここは朝食を食べた場所の直近の荒瀬橋下から入った。
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 藤沢川を上がって最初の1匹が出たが、10cmにも満たないカジカだった。
 うーん残念という心境だが、外道でも渓魚は渓魚、丁重に藤沢川にお返しした。
 川を遡上して70~80m程のところに堰堤とその上にプールがあり、ここで釣ってみることにした。
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 山女の1歳魚で10cm程の大きさのものがこの淵で出た。
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 堰堤の上のこのプールでは、2匹のやはり1歳魚の山女が出た。
 このプールから上は歩いて行けない深さなので、ここで引き返した。

 藤沢川の中束集落より下は、今日は藤沢川の河川敷の草刈りの日ということで、集落の方が総出で草刈り機の音を響かせて草を刈っていた。
 本来ならば釣りにならない日であるが、草刈りの終わった場所を狙って、こんな日でも釣り師は釣りをする。
 藤沢川と女川の出合いから釣り下ることにした。
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 出会い下で、すぐ最初の1匹が出たが、もちろん1歳魚である。
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 少しずつ釣り下っていくが、ポイントがほぼ川の全域に広がっていて、どこでも1歳魚が出た。
 1歳魚でも山女は山女、この山女達と遊んでいると渓流釣り師に生まれて良かったと心から言える気がしてくる。
 天気は上々だし、空気も爽やかで、気分がいいのだ。
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 いい気分に浸っているうちに、また1匹釣れた。
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 また1匹釣れたが、この山女は嫌々ながら河川敷の草原でポーズを決めてくれた。
 これらの山女は、全て「キャッチ&リリース」である。
 もちろんその心は、「蒙古のものは蒙古へ、女川のものは女川へ」の開高健である。
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 結局ここでは、10匹ほどの可愛い1歳魚と楽しく遊ぶことができた。

 そして、5月26日の釣り対6月9日の釣り勝負だが、釣果も気分も6月9日の釣りの圧勝である!(^^)!

東京散歩Ⅱ その4 「東京都谷中霊園案内図」を手に、谷中霊園を歩く 

 この後谷中霊園管理事務所に行き、「東京都谷中霊園案内図」をもらった。
この案内図にはNO1の天津乙女からNO75の鏑木清方まで75人の有名人の墓碑の位置が紹介されている。

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 徳川慶喜の墓を見たかったので、他の有名人の墓はさほど興味が湧かなかったが、案内図に従って、NO32ニコライ、NO52鳩山一郎、NO51横山大観、NO75鏑木清方、NO19長谷川一夫、NO14佐々木信綱などの墓を見て回った。
 まず、NO32ニコライからである。

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 ニコライは日本では神田駿河台にあるニコライ堂のニコライとして親しまれ、函館では新島襄から日本語を教わり、ニコライは新島に英語と世界情勢を教えた。
 次はNO52鳩山一郎の墓である。

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 鳩山家の墓が三つ並んで建っていて、鳩山一郎は中央の墓石に妻の薫と共に刻まれていた。
 鳩山は一郎は第52・53・54代内閣総理大臣で、1954年-1956年の首相在任中に保守合同を成し遂げて自由民主党の初代総裁となり、日本とソビエト連邦の国交回復を実現した。
 この墓のすぐ横にNO51横山大観の墓があった。

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 横山大観は、谷中に住んでいた岡倉天心の四天王の一人で、下村観山、木村武山、菱田春草とともに岡倉天心の新日本画の理想を具現した人である。
 大観の描いた画を思い浮かべながら、細長い敷地に建っている墓地を往来した。
 ここから少し歩いて、NO19長谷川一夫の墓に行った。

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 長谷川一夫は有名な映画俳優であるが、墓所は至って簡素であった。
 長谷川一夫は戦前から戦後にかけて二枚目の時代劇スターとして活躍し、同時代の剣戟俳優である阪東妻三郎、大河内傳次郎、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門とともに「時代劇六大スタア」と呼ばれ、松竹時代劇の看板俳優となった。

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 次に、すぐ近くにある谷中・天王寺五重塔跡に行った。
 この五重塔は幸田露伴の小説「五重塔」のモデルにもなった天王寺の五重塔で、1908年に当時の東京市に寄贈されたもので東京の名所のひとつとして谷中霊園のシンボルになっていた。

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 ところが、1957年に心中放火事件が起きてシンボルは完全に焼失しその後立て直されることもなく、現在に至っている。
 この天王寺五重塔跡の裏手に、NO14佐々木信綱の墓があった。

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 佐々木家の墓が三つ並んで建っていて、その一番左の黒っぽい墓が佐々木信綱の墓である。
 墓には「佐々木信綱大人 佐々木雪子刀自  墓」と刻まれていた。

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 最後にNO75鏑木清方の墓を見たが、鏑木家の墓とだけあって清方の名はどこにもなかった。
 さらっと霊園を見て回り、午前11時50分には霊園を後にした。

近江街道をゆく その24 近江八幡ステーションホテルから彦根城へ

 これから近江八幡まで行く。
 近江八幡の近江八幡ステーションホテルで5泊し、彦根・湖東、近江八幡・東近江、紫香楽・甲賀などをじっくりと散策する予定となっている。
 長浜から近江八幡まで40km程の道を、主に琵琶湖畔を眺めながら気分良く走り抜けた。
 午後3時20分頃に近江八幡のトヨタレンタカー事務所に到着し、レンタカーを返却して1泊2日の車での旅をいったん終えた。

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 その足で近江八幡ステーションホテルに入り、このホテルで夕食時までしばらく休んだ。
 夕食は、ホテル近くのイーオン4Fの本屋の隣で営業している中華料理店で、カツ丼定食を注文し、おいしくいただいた。

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 ホテルの部屋はとても居心地が良く、この夜はぐっすり眠れた。
 11月5日(土)、旅に出て6日目の朝となった。
 このホテルは朝食付き5500円での契約となっていて、格安の割に部屋はしっかりしていて朝食も毎日同じメニューではあるが、とてもおいしくいただくことができた。

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 その毎日の決まり切った朝食がこのセットである。
 朝食を食べるのは、小綺麗な1階の食堂である。

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 飲み物はコーヒーやオレンジジュースなどに変えることができるが、それ以外は毎日同じセットで、この食堂の食卓に運ばれるのである。
 しかし、朝食付き6800円で泊まっていたビジネスホテル西大津と比すると実質的な内容は逆で、このホテルの方が6800円の価値があると思った。
 僕の気持ちはそういうふうなので、このホテルに十分満足していて、飲み物も変えずにトマトジュースだけを頼み、5日間の単調だが日常そのものの朝食を完食して近江路の旅に出発した。

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 そして今日の予定だが、天下の名城として名高い彦根城とその城下の散策である。

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 近江八幡駅から午前8時35分発の琵琶湖線に乗り、午前8時50分にJR彦根駅に到着した。

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 駅でしばらく待って、それからこのご城下巡回バスに乗って彦根城へ向かった。
 このバスは彦根駅前を起点に、彦根港→龍潭寺→護国神社前→彦根城→夢京橋キャッスルロードを通って、彦根駅前に戻ってくるご城下巡回バスである。
 観光客が沢山乗っていて、彦根城への期待がますます膨らんでくる楽しいバスだった。

2019年 調子はずれのジュンチャンの釣り その2 対決!大石川対藤沢川

 大石川には5月26日、藤沢川には6月9日に行った。
 まず、5月26日の大石川である。

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 天気も良く、景色も絶景となっていた。
 この絶景を見ながら、いつもの鮖谷橋脇の空きスペースで朝食である。

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 大石川の朝食メニューは、ハムカツ+焼きそばのサンドウィッチ、おかかのおにぎり、魚河岸横丁のあら汁の味噌汁、バナナとトマト、そして「UCCコーヒーとデザート」である。
 これがデザートの「萩夏ふわり」である。

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 山口県は夏みかんの原産地があるので、原産地に近い「萩の街」はいたるところで夏みかんがたわわに実っていた。
 山口ボケのジュンチャンには、UCCコーヒーを飲みながらデザートで食べた、この「萩夏ふわり」が一番おいしかった。
 朝飯を食べに大石川に来た訳でもないので、ここから釣りの開始である。
 しかし大石川に入ると、朳差岳周辺の細流を源流とするユキシロ混じりの水が冷た過ぎて、アユ用ウェットウエーダー(以前は水が入ってこないドライウエーダーを使用)でこの5~6年釣りしているジュンチャンには、たった5分位も、5月の大石川の水に入っていられなかった。
 それで急きょ、ワラビ取りに目的を変更した。

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 鮖谷橋近くの大石川右岸のこの辺りには、毎年美味しそうなワラビが生えるが、ここでワラビ採りに精を出していると地元のおじいちゃんが、「この時期のワラビは昔から嫁に食わすなというくらいおいしい」とうれしいことを言ってくれた。

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 10分程頑張って、なかなか美味しそうなワラビがこのくらい採れた。

 次に6月9日の藤沢川である。

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 この日は、中束集落から1km程上流に架かる荒瀬橋近くの駐車スペースに車を停めて、里山の絶景をジックリ堪能しながら朝食とした。

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 藤沢川の朝食メニューは、厚切りロースハム+ダブルハムカツのサンドウィッチ、香り箱の寿司(カニの足の押しずし)、九州有明海産の海苔の味噌汁、バナナとトマト、そして「UCCコーヒーとデザート」である。

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 この日も、山口みやげで買ってきた左端の「萩夏ふわり」が一番おいしかった。
 そしてこれから釣りの開始であるが、釣りのことは次回に回して、この日は釣行後に採ったワラビ採りをここで記す。

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 ワラビを採った場所は、この藤沢川近くの女川河岸である。

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 この日も、5分程でなかなか美味しそうなワラビがこのくらい採れた。
 「大石川対藤沢川の勝負」は、結局は「朝食とワラビ採りの対決」となったが、この勝負は引き分けとして、真の勝者は「萩夏ふわり」に譲りたい。  
 次回は本番の「山女釣り」である。






近江街道をゆく その23 姉川古戦場跡で

 小谷城跡から20分ほど走って、滋賀県北東部の旧浅井町(現長浜市)の「浅井三姉妹の郷」で昼食とした。

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 本駅は2016年3月にプレオープンし、僕がここに立ち寄ったのはこの期間で、2017年3月から正式に開業する予定となっていた。

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 駅の中で自然薯や地域の伝統料理中心のメニューで店を構えている自然薯茶屋「浅井家」で昼食となったが、食べたのは三姉妹御膳で値段は980円だった。
 ここ旧浅井町は戦国時代の武将の浅井長政が統治していた町で、浅井・朝倉連合軍が天下統一を目指す織田・徳川連合軍と激戦を繰り広げた「姉川の戦い」の舞台でもある。
 食事後、車で1~2分のところにある「姉川の戦い」の舞台となった古戦場跡に向かった。

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 この右一番下の黄星印の位置あたりが姉川古戦場跡である。

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 その古戦場跡には姉川古戦場と赤い生地で白抜きされた大きな幟旗が立っていて、数台車を留めることのできる駐車場の一角にレンタカーを停めた。

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 姉川に架かる橋の上に立って姉川の下流方向を眺めながら、午前中に立ち寄った国友の町が見えるかどうか眺めてみたが、鉄砲の里国友町らしい街並みはここからは見えなかった。
 この姉川を挟んで、「姉川の戦い」が行われた。

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 戦いの布陣は姉川を挟んで、浅井軍(八千)と朝倉軍(一万)で一万八千、織田軍(二万三千)と徳川軍(六千)で二万九千、併せて五万近い兵士がこの戦いに参戦したのである。
 戦いは午前5時に始まり午後2時に終わったとされている。
 合戦は西方に位置した朝倉・徳川軍の間で始まり、最初は朝倉軍が優勢だったが側面を攻撃され形勢は逆転した。
 この一帯の浅井・織田軍の戦闘も同様で、形勢は逆転し浅井軍も敗退した。
 ただ最近、姉川合戦は浅井軍の信長本陣への奇襲作戦であり、通常言われるような大規模なものではなかったという説も唱えられている。

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 橋の上から姉川の上流方向を眺めると、名峰伊吹山の山影がくっきりと見え、昔から変わらない風景の中で行われ今はその痕跡すらも残っていない「姉川の戦い」を感傷的に偲んだ。

2019年 調子はずれのジュンチャンの釣り その1 山口県の後遺症

 5月の後半、山口県(長州)に10日ほど旅していて、その間釣り師を廃業していた。
 長州は自然がまろやかで、気候は温暖で、行儀や言葉づかいの品の良さは日本中のどの県よりも良く、美しい物腰が残っているところである。
 その風景も絶景地に恵まれていて、関門海峡、赤間神宮、福徳稲荷神社、角島大橋ときりがない。
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 この「角島大橋」は山口屈指の風景とのことで、まるで沖縄を思わせるような海が広がっていて、橋の中ほどの駐車可能なスポットで写真を撮りまくった。
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 この「元の隅稲荷神社」は世界が注目する今もっとも話題の神社だそうで、アクセスがかなり大変だったが、強引にこの辺境の地まで行って、ここでも写真や動画を撮りまくった。
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 あいにくの雨の中、傘をさしながら撮った大内文化の最高傑作といわれる「瑠璃光寺五重塔」も凄かった。 
 この他にも、青海島、秋吉台、萩城下町など、息を止めてしばしたたずんでしまうような場所が県内の随所に存在した。
 その後遺症が残っていて、釣りを再開してもなかなか調子が出ず、このところ調子はずれの「釣り師ジュンチャン」であるが、また今日からブログを再開する。




近江街道をゆく その22 小谷城跡を歩く

 国友から小谷城跡に向かった。 
 戦国時代、「近江を制するものは天下を制す」といわれたほど、近江は天下を左右する重要な位置にあり、数多くの戦乱の場となり多くの城郭が築城された。
 小谷城は長浜市湖北町伊部(旧・近江国浅井郡)にあった戦国時代の日本の城で、日本五大山城の一つに数えられている。
 城は戦国大名浅井氏の居城として標高約495m小谷山(伊部山)から南の尾根筋に築かれ、浅井長政と信長の妹お市の方との悲劇の舞台として知られている。
 20分ほどレンタカーを走らせて小谷城跡に到着した。

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 城跡の入り口に、榛葉竹庭作の小谷城懐古の句碑が建っていた。

  将星更不顧輸贏     
     
  強別妻孥貫款誠     
               
  今日丘墟荒草裏     
                
  翠筠猶是掛清聲     


 通訳も掲載する。

 「浅井長政は敢然として勝敗を無視したのである。強いて妻子を城から脱出させた後、朝倉氏との信義を重んじ城を枕に討ち死にした。今日雑草の生い茂る城址の中に立ってみると嘗てその節を曲げなかった浅井長政にも似た竹が、今でも清らかな風声を挙げている。」

 史実はこうである。

 「浅井長政は1560年浅井家の当主となり織田信長の妹お市を娶り、織田家と同盟を結んだ。その後湖北から湖西にわたり威をはり、信長の覇業達成に協力した。しかし1570年信長の越前責めに際しては、父祖以来朝倉氏より受けた重恩に報いるために、小谷城で反信長の兵を挙げた。信長は一旦兵を引いて京に逃れたが、1573年7月の再攻撃で足利義明が信長に降伏し、室町幕府は滅亡した。朝倉義景が自刃するに及び、小谷城は全く孤立した。8月27日からの織田勢の総攻撃で、命運の尽きたことを悟った長政は、お市と子供3人を信長の陣に送った後、父久政と共に城を枕に討ち死にした。」

 これから浅井長政の思いが永劫に眠っている小谷城跡まで来るまで上がっていく。
 スタートする前に、山城跡から歩いて下ってきた50才くらいの面白い男に出会った。
 1時間ほどかけて歩いて城跡に登ってそして今下ってきた男は、ここはそう面白くもなかったが、彦根が良かったと言っていた。
 僕が司馬遼太郎の街道をゆくを参考に歩いていることを知って、彼も実は司馬の街道をゆくは読んでいると言って、彦根の埋木舎の描写が司馬の描いた表現にぴったりで、感心しながらこの舎を散策したと話していた。
 楽しみがまた一つ増えた。

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 男と別れ、小谷城跡の出丸のあった場所まで車で上がった。
 そこから番所跡まで歩いた。

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 ここには上図案内図が設置されていて、このような山城がここに築かれていたことが具体的にわかった。

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 この辺りからの景色は秀逸で、北近江の平原が遠くまで見通せ、その奥に琵琶湖が眺められた。

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 また歩いて行くと敵方に内通していた家臣の今井秀信の首が晒されていた石が置いてあった。

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 ここは大広間跡で、別名千畳敷と呼ばれ、長さ約85m、幅約35mで、前面には石垣が積まれていて、石組跡や蔵跡が確認されている。

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 ここは本丸跡で、構造については不明であるが、何層かの建物であったと想定されている。
 本丸跡でしばらく休んで、小谷城跡をゆっくり下って、また再び地上に戻った。

能登(日本道)への道 その3 山の寺寺院群のさわり部分を散策

 小丸山公園を出て、七尾の街をどう歩こうか思案していたが、初日はいつもの履き慣れた靴の代わりに、主に肉体労働をする人たちのための商品を扱っている店から安くて丈夫な靴を使って歩いていたが、どうもこの日はこの靴の調子が悪くて、見学箇所を大幅に縮小することにした。

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 これから山の寺寺院群に向かって歩いて行く。
 山の寺寺院群は、1581年に前田利家が奥能登地域からの七尾城の防御を目的に、浄土真宗を除く各宗派の寺院を防御陣地として移転配置したもので、設置当初は29の寺院が存在したが、現存する寺院は16である。
 寺院間を結ぶ山道は「瞑想の道」と呼ばれ、観光・散策コースとなっている。

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 山の寺寺院群に向かって歩いていくと、長齢寺の看板が見えてきた。
 現存する16の寺院を散策する気は全く起きず、ほんのさわりの寺だけを見ることにした。

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 歩いたのは黄線の道で、黄矢印の方向に、長齢寺、徳翁寺、龍門寺と楽しく散策した。
 それではまず、長齢寺からである。

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 ここが長齢寺の山門である。
 長齢寺は曹洞宗総持寺派の寺院で、前田利家が能登で建てた唯一の寺院とのことである。

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 山門を潜り寺の中に入ったが、そう見栄えもせず普通の民家のように見える寺で、手入れも十分にはされてないように見えた。
 宝物館もあるということだが、どこにあるかわからず、前田利家の両親の墓だけをしっかり確認した。

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 新緑の中で、前田利家の父母は静かに永遠の眠りについていた。
 長齢寺から徳翁寺への散策路はすがすがしい道という印象で、竹林の多い散策路は当初予定していた七尾湾クルージングよりもかえって良かったかもしれないと思った。
 ただ、この寺院群を繋ぐ道は、いざというときには兵士達の駆け抜ける道で、そんな事を考えていると、織田・豊臣・徳川の時代にタイムリープしているような気にもなってくる。

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 たとえば、この階段の上から鎧を着た兵士が今にも飛びかかってきそうな幻想を覚えたりした。 
 この坂を登っていくと、2番目のお寺の徳翁寺である。

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 徳翁寺は長齢寺よりずっと綺麗に保たれていて、境内の中にいるだけで気分が良かったが、森の中ではないので、夏並みに上昇した気温の中では、そう快的とも思えなかった。
 お寺をいろいろ見ていたら、妖しいものと思ったのか住職らしき方がこちらをジロッとにらんだので、急いで退散した。

東京散歩Ⅱ その3 谷中墓地で「最後の将軍-徳川慶喜」に会う


 この徳川慶喜の墓が谷中墓地にあり、寛永寺から10分ほどの距離だという。

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 谷中墓地に入ってから、その辺りにいた元気のいい半ズボンのおばあちゃんに案内されながら歩き、この案内矢印の場所以後も引き続き一緒に歩いてもらって、広い敷地の墓地となっている慶喜公墓所まで辿り着いた。

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 最後の将軍はその後朝敵とされたが、自分を赦免した上華族の最高位である公爵を親授した明治天皇に感謝の意を示すため、自分の葬儀を仏式ではなく神式で行なうよう遺言し、また墓も京都で歴代天皇陵が質素であることを見て感動しその遺言により、徳川家菩提寺である増上寺でも寛永寺でもなく、ここ谷中霊園に皇族のそれと同じような円墳で祀られている。
 司馬遼太郎の「最後の将軍-徳川慶喜」は、慶喜の生い立ちから没するまで描いた小説で、1998年に「NHK大河ドラマ徳川慶喜」の原作となった。
 その中で司馬は徳川慶喜を、才知に富んだ人物ではあるが感情的に不可解な人物として描いている。

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 最後の将軍は代15代の将軍、もちろん最初の将軍は徳川家康である。
 1代家康、2代秀忠、3代家光、4代家綱、5代綱吉、6代家宣、7代家継と徳川宗家が幕府の将軍を相続し、8代吉宗になって紀州徳川家の吉宗が将軍となり、9代家重、10代家治と続いていく。
 11代は御三卿の一橋家から家斉が将軍となり、12代家慶、13代家定と続いていく。
 この家定の後の将軍職を争ったのが、紀州徳川家から14代将軍となった家茂と、その後に一橋家から将軍となった代15代将軍慶喜である。
 この時政争に勝利して14代将軍となった家茂は、将軍となった当時の年齢が12歳である。
 敗者となって、その後いろいろ悪戦苦闘しながらあの時代を精一杯生きていた最後の将軍慶喜は21歳であった。

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 この時政争を争った派は、家茂を推薦した南紀派と慶喜を推薦した一橋派である。
 幕末の時代で諸外国から開国を迫られ、対応を誤れば中国や東南アジアの国々と同じように事実上の植民地となる可能性の高かった時代に、日本国の政治を含む全ての権力のリーダーとなっていた徳川幕府の対応は大変なもので、今の時代であったら総理が1年交代で辞めざるをえないような時代背景だった。

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 開国を迫る諸外国列強に対して、幕府の対応と朝廷の対応を一覧表で比較する。
 征夷大将軍として政治の一切を朝廷から委任されている幕府は、最初は尊皇攘夷(尊王-敬幕-忠藩-攘夷)で通して鎖国を通していたが、列強の圧力に屈して1854年の日米和親条約を皮切りに、不平等条約とあとあと言われてしまった開港等の条約を結んで、開国の立場を強めていく。
 一方政治の一切を幕府に委任している朝廷の立場は幕府の開国の立場に批判的で、一貫して尊皇攘夷(尊王-敬幕-忠藩-攘夷)の立場をとっていく。
 1858年に一橋派に勝利して家茂は14代将軍となり、立役者の井伊直弼は大老となり、反対派の一橋派を安政の大獄によって弾圧していく。
 開国を指導した井伊直弼は、その後尊皇攘夷派により桜田門外の変で暗殺された。
 それを引き継いだ安藤信正は尊皇攘夷派を抑えるべく公武合体策を展開し、皇女和宮と将軍家茂を結婚する策に出る。
 この1861年当時、皇女和宮と将軍家茂はどちらも16歳だった。
 大変な時代の指導者だった安藤信正は公武合体の成功を見届けたのちに、尊皇攘夷派に坂下門外で襲われ、その春には失脚した。

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 その後、薩摩藩主島津久光の要求で、1863年7月「文久の改革」が始まる。
 慶喜は将軍後見職となり、再度政治の舞台に登場する。
 ここで、才知に富んだ人物ではあるが感情的に不可解な人物として司馬に描かれた慶喜の有名なエピソードが登場する。
 雄藩最高実力者の合議制であった参預会議の席上、泥酔した慶喜は主催者である中川宮に対し、島津久光・松平春嶽・伊達宗城を指さして「この3人は天下の大愚物・大奸物であり、後見職たる自分と一緒にしないでほしい」と暴言を吐いたという。
 この発言によって久光が完全に参預会議を見限る形となり、春嶽らが関係修復を模索するが結局体制は崩壊となった。(慶喜はこういう人です。)

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 最後の将軍慶喜は、1866年12月5日から1867年10月14日の大政奉還まで将軍であった。
 その1年間慶応の改革を推進し、横須賀製鉄所や造・修船所を設立し、ジュール・ブリュネを始めとする軍事顧問団を招いて軍制改革を行い、老中の月番制を廃止し、陸軍総裁・海軍総裁・会計総裁・国内事務総裁・外国事務総裁を設置し、実弟・昭武をパリ万国博覧会に派遣するなど幕臣子弟の欧州留学も奨励した。
 大政奉還後、鳥羽伏見の戦いを経て慶喜は江戸に逃れ、寛永寺で謹慎中に幕府の全権を委任した陸軍総裁の勝海舟と東征軍の西郷隆盛との会見で、江戸城の無血開城となり江戸幕府は崩壊となった。

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 最後の将軍慶喜の評価は様々である。
 実父・斉昭の腹心・安島帯刀は、慶喜を「徳川の流れを清ましめん御仁」と評し、幕威回復の期待を一身に背負い、将軍位に就くと「権現様の再来」とまでその英明を称えられた。
 長州藩の桂小五郎は、「一橋慶喜の胆略はあなどれない。家康の再来をみるようだ」と警戒していた。
 坂本龍馬は、大政奉還後の政権を慶喜が主導することを想定していた。
 渋沢栄一、萩野由之は、慶喜の恭順により京都や江戸が焦土なることをまぬがれ、またフランスの援助を拒絶したため外国の介入がなかったとし、維新最大の功績者の一人であったと述べ、特に渋沢は安政の大獄と明治維新の際の謹慎の態度も高く評価している。
 鳥谷部春汀は、第二の関ヶ原の戦いを回避できたのは慶喜の功績であるなど、行跡・人格・才能とともに日本史上最大の人物の一人と記している。
 いろんな意味で超一流人物であった最後の徳川将軍の高貴な魂に深く頭を垂れ、この場を後にした。

近江街道をゆく その21  鉄砲の里国友を歩く

 寝物語の里から40分ほどかけて、長浜市南部の姉川沿いにある鉄砲の里で有名な国友町に入り、そこの資料館前に車を留めた。

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 国友鉄砲の里資料館は滋賀県長浜市にある博物館で、戦国時代から江戸時代まで鉄砲などの生産地として栄えた国友の歴史資料の保存と紹介を目的として1987年10月10日に開設された。
 さっそく館内に入った。

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 館内では集落内に残る国友鉄砲(火縄銃)を集めて大量展示をしている。
 種子島に伝来した鉄砲は、足利将軍の命により伝来の翌年に国友で作り始められた。
 ネジを切る方法に工夫を重ね、大量の鉄砲製造が可能になり、最盛期には国友には70軒の鍛冶屋と500人を超す職人がいた。
 鉄砲をいち早く取り入れた信長は、長篠の戦いや石山合戦などで効果的に鉄砲を使い、1573年に長浜城主となった秀吉は国友鉄砲鍛冶を手厚く保護した。

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 国友鍛冶が造った大筒は、関ヶ原合戦や大阪冬の陣で使用された。
 鉄砲を最大限に利用した信長・秀吉・家康は勝利者となり、日本の国の支配者となっていくのである。
 またここには、「東洋のエジソン」と称される国友一貫斎、遠州流茶人辻宗範ら国友の文化人に関する展示も行われていた。
 これから館内を出て、国友の街を散策する。

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 上図の黄星印の場所を見ながら、姉川の見えるところまで歩いて行く。

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 館を出るとすぐの道路手前に、司馬遼太郎著「街道をゆく 近江散歩」より引用した国友鉄砲鍛冶の成立期のことを書いた一文が刻まれた石碑が建っている。
 国友は司馬遼太郎の愛した町で、町のあちらこちらに、司馬の作品より引用した石碑が建っている。

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 しばらく歩くと、「星を見つめる少年」像が建っていた。
 この像は、自作の望遠鏡により日本で初めて宇宙を覗いたこの村の人である国友一貫斎を偲んで造られたもののようで、一貫斎少年の熱い思いが伝わってくる。

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 「星を見つめる少年」像の、道路を挟んで反対に建っているこの建物が、国友一貫斎の屋敷である。
 屋敷は国友村で年寄脇(年寄の次席)を勤める御用鉄砲鍛冶の家の一つ国友藤兵衛家として歴史を過ごし、一貫斎はここの9代目にあたる。

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 またしばらく歩き、国友町会館の前にある池の中に置かれている司馬遼太郎文学碑の前に立ち、そこに書かれている文章を読んでみた。
 「国友村は、湖の底のようにしずかな村だった。家並はさすがにりっぱで、どの家も伊吹山の霧で洗いつづけているように清らかである。」と書かれていた。

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 この後またしばらく歩いて、姉川の岸辺まで行った。
 上流方向を見ると、後で見に行こうと計画している、姉川の古戦場として有名な国友橋らしい橋が見えていた。
 ここ国友近辺は戦場ともなっているのである。

能登(日本道)への道 その2 前田利家の小丸山城散策


 今日は七尾まで到着することを最優先していたので、午後からの日程はかなりいい加減で、出発前日に前田利家関連の資料をネットから引き出し、「前田利家と七尾」というテーマで前田利家ゆかりの旧跡を訪ねることにした。
 七尾駅前で長谷川等伯の像が立っていたので、その前で七尾へ来て初めての記念撮影をした。
 長谷川等伯については、後で七尾美術館に行ったときにふれることにする。
 まず、1582年に前田利家が領国支配の拠点として築いた小丸山城跡(平山城)を目指して、駅前から今は小丸山公園となっている城跡まで歩いて行く。

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 この山(丘)はかっては小丸山城の一部となっていたようで、山の手前の道を歩いて、小丸山公園の表玄関まで行った。

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 歩いて10分ほどで、城址公園の駐車場前に到着、天守跡へはどうやら向こうに見える坂を左方向に向かって登っていけばいいようである。
 前田利家はここ能登ではじめて1国1城の城主となっており、能登を治めるために築いた小丸山城は、城主としての最初の城であった。
 ここで少し歴史のお復習いをすると、戦国時代能登は七尾城を拠点として畠山氏が支配していたが、越後の上杉謙信が畠山氏を滅ぼし、その上杉と戦って勝利した織田信長が配下の前田利家に能登を支配させたのである。

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 公園の一角に、NHK大河ドラマの主人公となったことを記念して、「前田利家と妻の松子」の像が建てられていた
 大河ドラマは平成14年の放映で、僕は今の今まで前田利家という人に全く関心がなかったので、歴史の教科書で書かれた表面的な知識(加賀百万石を築き、秀吉の五大老の筆頭)ぐらいしか持ち合わせて無く、ドラマ自体も一回も見たことがなかった。
 この旅が終わる頃には、少しは前田利家に関する知識も増えるだろうが、今は全く自身の無いままに天守跡への道を歩いていく。

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 この道の左手に石垣跡があり、この石垣の上に天守等があったのだろう。

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 道の突き当たりに、小丸山城址跡と書かれたりっぱな石碑が建っていた。

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 石碑の建っている場所一帯は広い公園となっていて、この公園のどこかに天守が建っていたのであろうが、そこへの道標はどこにもなかった。
 草刈りの機械音がする中を、七尾線で見た能登の田園風景を思い出しながら、七尾湾の見える方向に向かって歩いていく。
 これからおいおい能登半島を知ることになるのだが、まず手始めに今まで全く知らなかった前田利家の旧跡の中を歩いていく。
 前田利家は石川県民の風土の中で確かに今も生きているはずであり、そういうことを少しでも体験しながら、旅を進めていく。

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 そして小丸山公園の展望台に到着し、そこから眼下に広がる絶景の七尾市街と七尾湾を、しっかりと両眼に納めた。
 良い旅ができそうな予感が身体全体に広がった。

東京散歩Ⅱ その2 東叡山寛永寺にて


 子規庵から歩いて10分ほどで寛永寺通用門に到着した。

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 この門から現在の寛永寺に入った。
 寛永寺は1625年に慈眼大師天海大僧正によって創建された。
 徳川家康、秀忠、家光公の三代にわたる将軍の帰依を受けた天海大僧正は、徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地に寛永寺を建立した。
 天海は江戸と寛永寺との関係を、京都と比叡山の関係になぞらえて構想していた。
 平安の昔、桓武天皇の帰依を受けた天台宗の宗祖最澄が開いた比叡山延暦寺が、京都御所の鬼門に位置し、朝廷の安穏を祈る鎮護国家の道場であったことにならったものである。
 そこで山号は東の比叡山という意味で東叡山とされ、さらに寺号も延暦寺同様、創建時の元号を使用することを勅許され、寛永寺と命名された。

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 寛永寺は最盛期には現在の上野公園を中心に境内地約30万5千坪、寺領約1万2千石に及ぶ我が国最大級の格式と規模を誇った。
 現在の上野公園のほぼ全域が往時の寛永寺の境内であった。
 松坂屋上野店あたりから上野公園入口あたりの道をかつて「広小路」と称したが、これは将軍が寛永寺にある徳川秀忠らの霊廟に参詣するための参道であり、防火の意味で道幅を広げていたため、広小路と呼ばれた。
 上野公園入口付近には「御橋」または「三橋」と称する橋があって寺の正面入口となっており、その先に総門にあたる「黒門」があった。
 上野公園内中央を通り、大噴水、東京国立博物館方面へ向かう道がかつての参道であり、文殊楼、その先に法華堂と常行堂、多宝塔、輪蔵、根本中堂、本坊などがあった。

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 その周囲には清水観音堂(現存;清水観音堂は京都の清水寺になぞらえたもの)、五重塔(現存)、東照宮(現存)、不忍池の中島に建つ弁天堂(現存するが20世紀の再建;不忍池と中島の弁天堂は、琵琶湖とそこに浮かぶ竹生島宝厳寺の弁才天にならったもの)などが建ち、また36か院にのぼる子院があった。

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 ここは根本中堂(本堂)である。
 1698年に現上野公園内大噴水の地に建立された根本中堂は、1868年の戊辰戦争(彰義隊の戦争)の際に焼失してしまった。
 現在の根本中堂は、明治十二年に川越喜多院の本地堂を山内子院の大慈院(現寛永寺)の地に移築し再建されたものである。

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 ここに祀られている本尊は、最澄の御自刻とされる薬師瑠璃光如来像(秘仏;国指定重要文化財)である。
 そして根本中堂の裏に、幕末に徳川幕府最後の将軍となった徳川慶喜公が2ヶ月間に渡って謹慎した「葵の間」がある。

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 この日は非公開ということで、パンフレットだけいただいた。
 「葵の間」は二間続きの小じんまりとした部屋で、ここで1868年2月12日から江戸城無血開城の4月11日迄の二ヶ月間、最後の将軍は謹慎していた。

近江街道をゆく その20 寝物語の里にて


 ビジネスホテルウェルネスから中山道を岐阜県境の方向に1時間ほど走ると、滋賀県と岐阜県の間に長久寺という集落がある。

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 上地図の黄矢印の地点に寝物語の里があるというので、東海道本線の踏切を越えて村中の道を美濃(岐阜県)の方向に進んでいった。
 寝物語の里の由来だが、国境の小さな溝を隔てて美濃側の旅籠「両国屋」と、近江側の旅籠「亀屋」があり、そこに泊まった旅人が壁越しに聞こえる声から同じ人物を慕う者同士と分かり、壁越しに語り合ったという伝説から、この里を寝物語の里と呼ぶようになったという。

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 国境を過ぎて美濃(岐阜県)側の空き地に車を留め、歩いて国境の寝物語の地に向かった。

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 そして、どうやら国境の地に到着、写真左下を斜めに走る50cm程の幅の溝を挟んで、左手が美濃(岐阜県)、右手が近江(滋賀県)となる。
 今は空き地となっている辺りに美濃側の旅籠「両国屋」と近江側の旅籠「亀屋」が建っていたのだろう。

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 そして、この溝を挟んで建っている二つの旅籠の壁越しに、二人の旅人が夜遅くまで語りあっていたのだ。
 この国境は江戸時代までは東西の文化、風俗習慣、経済流通の接点の地として広く知られ、作家の司馬遼太郎など取材に訪れた文筆家や研究者も多い。
 司馬遼太郎の近江散歩から、この寝物語の里の冒頭部を引用する。
 「近江路のなかで、行きたいとおもいつつ果たしていないところが多い。そのひとつに、寝物語がある。そこは美濃と国境になっている。山中ながら、溝のような川(?)が、古い中山道の道幅を横断していて、美濃からまたげば近江、近江からまたげば美濃にもどれるという。・・・・」
 試しに溝をまたいでみたが、なるほど近江と美濃はこんなに近く、またいで二つの地を行き来することが簡単にできた。

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 ここは長久寺集落の観光名所となっていて、僕のほかにも写真撮影していた旅の人がいたが、
 自転車で3~4人で旅している方たちは目的の地ではないのか、素通りして通り過ぎていった。

東京散歩Ⅱ その1 鴬谷駅から始まる旅


 「東京散歩Ⅱ」は真夏の旅立ったが、東京はまだ梅雨が明けてなくて、この日も曇り時々雨のはっきりしない天気だった。
 新潟を早朝に出ると東京までは2時間程なので、午前8時42分には上野に到着した。

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 ほぼ当初の日程通り谷根千を歩いたが、10日程の旅の荷物を運ぶ容量35Lのリュックは上野駅の新幹線から降りたすぐのところにあるコインロッカーに預け、山手線で鶯谷駅まで戻って鴬谷駅前から谷根千散歩を始めた。

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 鶯谷駅は妖しい駅で、この辺りを熟知している観光客なら絶対に近づかない場所だという。
 鶯谷駅を右往左往しながら鶯谷北口から外へ出たが、そこは林立するラブホテル群のど真ん中だった。
 赤字아(ア)がまず最初の目的地である子規庵、赤字이(イ)が次の目的地の寛永寺である。

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 鶯谷駅の北東方向一体に広がっている赤ハートマーク群は全部ラブホテルだそうで、もちろん昼からこのあたりはそういう目的の方々が押し寄せてくる場所なのだろう。
 駅前から子規庵まで案内してくれたこの辺りの住人と思われるおじいさんの話では、まともな観光客はけっして 鶯谷には降りず日暮里駅に降り、そこから谷根千を散歩するという。
 僕は最初からまともな観光客に見られなかったようである。

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 この両側に立ち並ぶホテル群は全部ラブホテルで、ここを歩いているだけでそういう目的の者だと誤解されそうである。
 もちろん、正岡子規がここに居住した頃はこのような関係の建物は建っていなかったはずで、その後この辺りはこういう街になったのだろう。

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 教えてもらった道を歩いているうちに子規庵に到着した。
 子規庵の建物は旧前田侯の下屋敷の御家人用二軒長屋といわれている。
 明治27年に子規はこの地に移り住み、故郷松山より母と妹を呼び寄せ、子規庵を病室兼書斎と句会歌会の場とした。
 ここで多くの友人や門弟に支えられながら、俳句や短歌の革新に邁進した。

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 この日は休庵ということで中に入ることが出来なくがっかりしたが、ブロック塀に子規庵の説明看板が掲示されていたので、あらためて子規という人物のことをこの場で確認した。

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 正岡子規(1867〜1902)は俳人・歌人・随筆家で、幼名は升(のぼる)本名は常規(つねのり)。
 伊予国藤原新町(現愛媛県松山市)に生まれ、俳句・短歌の革新を唱え、また写生文を提唱した。
 新聞「日本」及び俳誌「ホトトギス」により活動し、子規庵での句会には森鴎外、夏目漱石も訪れ、歌会には伊藤左千夫、長塚節等が参加し、歌誌「アララギ」の源流となった。
 子規はこの場所に1894年2月から住み、1902年9月19日に病のため没した。
 母八重と妹律は子規没後もここに居住し、その後は子規の門弟である寒川鼠骨が庵を守った。
 子規という人物の確認とともに、今回の「東京散歩Ⅱ」の旅の中で訪ねることとなる場所にゆかりの人物など(新聞「日本」、伊藤左千夫、妹律)のことも確認した。
 森鴎外、夏目漱石については前回の「東京散歩 本郷界隈」で旧居を訪ねているので、今回はそこには行かない。
 子規に思いを残しながら、次の寛永寺に向かった。

能登(日本道)への道 その1 七尾まで


 「能登(日本道)への道」は2017年5月16日から始まった。
 この頃の旅は日本の国の中では一部の地域を除いてほぼ好転に恵まれるので、安心して旅に出れるが、1週間予報で雨の日が無くても、一応の用心として雨具や傘はリュックに入れて、旅に出発した。
 靴もいつもの履き慣れた靴を今回はやめて、主に肉体労働をする人たちのための商品を扱っている店から安くて丈夫な靴を買って、それを履いて旅に出た。
 旅に出る前はいつものことだが、かなり綿密に持参する衣類・道具類チェックを欠かさず行っている。
 そして、いつものことだが、結局全く使用しなかった品々をリュックに沢山詰め込んでしまうので、リュックはパンパンに膨れあがってしまっていた。

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 この重いリュックを背負い、石川さゆりの「能登半島」を口ずさみながら、出発駅に向かっていた。

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 夜明け間近、北の海は波も荒く、心細い旅の女泣かせるよう・・・・・19半ばの恋知らず、19半ばで恋をして、あなた、あなた訪ねてゆく旅は、夏から秋への能登半島・・・。

 この歌を何回か繰り返している内に駅に到着、しばらく待って特急とは名ばかりのしらゆき号に乗り込んだ。
 朝食は自宅前のコンビニで買った麻婆丼ほかで673円で済ませ、電車の中でのんびり食べた。

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 新潟から七尾まで4時間半ほどで行く予定だったが、七尾線で事故があったため、12時15分到着のところ結局5時間ほど掛かって、特急かがり火号は12時45分頃に七尾駅に到着した。
 七尾駅から能登半島の旅を始めてゆく。
 まず、今回の旅の日程を紹介する。

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 こんな日程の1週間の旅である。
 能登半島は国定公園となっており、併せて世界農業遺産にもなっていることから、旅の前から美しい日本を代表するような風景に出会えることを期待してしまう。
 宿泊予定のホテルに重いリュックを預け、ディバック一つを持って七尾の街に出た。
 まず昼食であるが、駅前の定食喫茶で、野菜や海老などの天ぷらが山盛りの天ざるを何と600円で食べさせてもらった。(すごく儲けたような気がして、さい先の良いスタートとなった。)

近江街道をゆく その19 長浜のビジネスホテルウェルネスに宿泊

 今日の日程は終了し、これから湖西から湖北までの琵琶湖畔をほぼ半周し、今夜宿泊する長浜のビジネスホテルウェルネスまでレンタカーで走っていく。

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 黄枠で囲った田中王塚古墳から黄星印のホテルウェルネスまで、幾つかのトンネルを潜りながら、琵琶湖畔の黄線の道を進んでいくことになる。
 このコースは、走る前からこの旅一番の難関になるだろうと考えていた場所で、北近江路の山中の5箇所程あるトンネル道を慎重に越え、そこを無事やり過ごすと今度は正面から西日を浴びながら湖北の湖岸道路を走り抜け、午後4時半頃にはビジネスホテルウェルネスに到着した。

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 夕食はホテル内の自室で、コンビニで買ったビーフカレーで済ませた。

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 ホテルの部屋は朝食付きで5,670円という値段の割には広くて快適で、朝までスッキリと熟睡出来た。

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 ビジネスホテルウェルネスの朝食場所は、この明るい雰囲気の食堂である。

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 野菜の煮しめと焼き魚一切れと目玉焼きと焼き海苔とサラダと梅干と味噌汁とご飯の、至ってシンプルで食べやすい朝食となった。

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 そして今日、11月4日(金)の日程である。
 寝物語の里、姉川古戦場、鉄砲の里国友、小谷城跡などの湖北の地をレンタカーで訪れるという日程である。
 それではまず、寝物語の里へ出発である。

東京散歩Ⅱ プロローグ

 2014年(平成26年)に済州島を旅したが、その後東京の本郷界隈を1日散策した。

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 田舎都市の新潟に住んでいるので、東大という日本の最高峰の大学のあるあたりを散策し、本郷界隈で暮らした森鴎外に代表される文豪達の旧居を訪ねて散策することは大いなる喜びで、歩きすぎて少々疲れたが、今は楽しい思い出となった。

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 今回の「東京散歩Ⅱ」の旅は、あの時から2年後の2016年(平成28年)の真夏に挙行された。
 徳川の江戸時代に形成されてから既に400年の歴史を持ち、世界に誇れる日本の首都となった東京の街を歴史や風土を確かめながら歩くのは1日や2日ではとうてい足りず、「東京散歩Ⅱ」の旅では8泊9日を用意した。

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 それでもしっかり回れたのは本所深川、神田、赤坂程度で、観光客に人気のスカイツリー周辺や谷根千や寅さんの葛飾柴又なども旅の日程に加えた。

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 これが「東京散歩Ⅱ」の当初の計画で、基本的にはさほど変更しないで、ほぼこの計画通りに旅を楽しんだ。

能登(日本道)への道 プロローグ


 2017年春5月に旅した「能登(日本道)への道」は2015年に旅した「越前と若狭の旅」に続く旅である。
 この旅の途中で石川県を通過したが、能登へは行かずじまいであった。
 まだ日本でなかった時代のことだが、今の福井県から新潟県に渡って、越国(こしのくに)と呼ばれた地域があった。

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 この上図で赤く塗られた広大な越国は、ヤマト王権の勢力が十分に及ばない日本海側の地域でありながら、朝鮮半島や大陸からの交通路になっていて、先進文化が栄えていた。
 大和国から日本国となった律令時代に入ると、越国は分割されて越前国、加賀国、能登国、越中国、越後国に分割され、それぞれの国に国府がおかれた。
今回の旅は古くは朝鮮半島や大陸からの交通路になっていて、それも表玄関とも言われていた能登半島への旅である。

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 能登半島は日本海に大きく突き出した地形をしており、古来から大陸や朝鮮半島から多くの者が、あるいは渡来者としてあるいは漂流者として、大和(日本)の表玄関である能登半島にやってきた。
 彼らは能登半島の先端を見つけたとき「倭の島」とたぶん言ったのだろう、この「倭の島」が現在の輪島の語源とも言われている。
 能登半島は特に朝鮮半島に栄えた高句麗や旧満州のあたりで栄えた渤海と交流があったところで、このことは旅の中でおいおい触れていきたいと考えている。
 しかし、この旅の最大の興味の中心となっている渤海のことは旅の冒頭で触れておきたい。

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 渤海(698年〜926年)は、満洲から朝鮮半島北部、現ロシアの沿海地方にかけて存在した国家で、高句麗の末裔の大祚栄により建国され周囲との交易で栄えた。
 唐からは「海東の盛国」と呼ばれていて、統一新羅の8倍の大きさがあり、かっての高句麗の4倍の領土を誇った。
 建国以後は唐や新羅の勢力を牽制する目的で日本への遣使を行い、日本側も渤海の使節を朝貢として扱って厚遇した。
 この渤海の日本への海上交通は「日本道」とよばれていて、実はこの渤海の日本への海上ルートである「日本道」にあやかり、2017年春5月に旅した旅を「能登(日本道)への道」と名づけた。
 たぶん僕の頭の中には、能登半島の旅の全行程に渡って、日本海を横断して日本と交流・交易していた渤海の昔日の姿が居座っていたのだ。

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 その原因となったのは、この1枚の図である。
 渤海のことを調べている内に、渤海使の日本海の横断航路図がかかれている図を、偶然ネットで発見した。
 「渤海国使」は、秋~冬に来日して、春~夏に帰国しているというのである。

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 その証拠写真(「気象衛星ひまわり」が捕えた「寒気」の吹き出しに伴う「雲」の写真)がこれで、秋から冬への北西の季節風に乗って日本海を横断してくるとは、まさに渡り鳥並の知恵と勇気のある人々だと、その日本海冒険の旅に果てしない勇気と限りないロマンを感じたので、それからの僕はしばらく渤海病になってしまった。
 来る時はシベリアからの北西の季節風を利用し、帰る時は太平洋から吹き上げる南寄りの季節風を受けて、彼らは風まかせの「帆走航海」をしていたのである。
 渤海使の旅に勇気を貰いながら、2017年春5月に旅した「能登(日本道)への道」をこれから進めていく。

大阪散歩 その23  堺市の古墳散策を終える

 次に、倭の五王の中の済に比定されている允恭天皇陵に向かった。

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 允恭天皇は仁徳天皇の第四皇子で履中・反正天皇の弟にあたるが、反正天皇が跡継ぎを決めないうちに亡くなったため、臣下の要請で天皇に即位した。

 允恭天皇は病弱だったため当初天皇になることを拒んでいたが、のちに允恭天皇の皇后になる忍坂大中姫に懇願されて天皇に即位したという。

 允恭天皇は都を現在の奈良県明日香村あたりにあった遠飛鳥宮(とおつあすかのみや)に移した。

 允恭天皇は初めて飛鳥に都を構えた天皇だった。

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 允恭天皇陵はBの位置にある。

 しかし、ここは応神陵よりも更に車を駐車する場所を見つけるのに苦労した陵で、2回ほど拝所の前を通ってこの辺の駐車できる場所を探したが、結局見つからないので、允恭天皇陵は横から見るにとどめた。

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 允恭天皇陵は、昔は他の陵のように周囲を水郷で囲まれていたと考えられるが、今現在はこの陵の周囲は普通の土である。

 倭の五王の最後で、最強とされる武と比定されている雄略天皇陵はCの位置であるが、ここはナビで検索しても出てこず、応神天皇陵と允恭天皇陵へのアクセスが想像以上に大変だったので、非常に残念ではあるが雄略天皇陵は諦めた。

 ところで、雄略天皇陵は高鷲丸山古墳とよばれている直径75mの円墳と、平塚古墳といわれる1辺50mの方形部分を合わせたものであり、円墳と方形部分の間は、幅20mの濠が巡っているという。

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 上の図は、古墳の大きさのベスト10である。

 倭の五王中最強とされる武王と比定されている割に、雄略天皇陵の大きさは全長100mにも満たず、まことに小さい。

 実際には違う人物の王陵ではないと誰でも疑ってしまう。

 ネットで調べたところ、雄略天皇陵は実は大仙陵だという説や、天皇陵の半分は間違った天皇に比定されているという説まであった。

 天皇陵は、実は主として江戸時代になって文献や言い伝えを基に定められたということで、それ以前はほとんどわからなかったという。

 江戸時代に尊皇思想の勃興とともに天皇陵探索の気運が高まり、本居宣長などが陵墓の所在地を考証したり現地に赴いたりして比定していたらしい。

 そんな不確かな雄略天皇陵のことは、あっさり諦めて何の悔いも残らなかった。

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 ただ、堺市の古墳散策を終えるにあたり、黄枠で囲った百舌鳥・古市の堺市が誇る古墳群が実に大古墳ランキングベスト10に6か所も入っているのは、河内王朝が当時いかに盛んな王朝であったかという確かな証拠ともなる。

 この5世紀に隆盛を誇った河内王朝は、葛城王朝の末裔の姫君を天皇妃に迎え彼らを外戚関係にすることによって、なおいっそう政権の繁栄と安定を図ったが、豪族葛城氏との関係は、5世紀後半からは敵対する関係に変わっていったようである。