探険家の歴史 第3部 第5章  イェルマークとシビル・ハン国(K)

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 チンギス・カンの長男のジョチ家がロシアに築いた領土はジョチ・ウルス(ジョチ家の所領)と言われ、それはキプチャク・ハン国とも呼ばれた。

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 ジョチ・ウルスは、13世紀から18世紀にかけて、黒海北岸のドナウ川、クリミア半島方面から中央アジアのカザフ草原、バルハシ湖、アルタイ山脈に至る広大なステップ地帯を舞台に、ジョチの後裔が支配し興亡した遊牧政権である。

 ジョチ・ウルスはその後、ヴォルガ中流のカザン・ハン国、カスピ海北岸のアストラハン・ハン国、クリミア半島のクリミア・ハン国、オビ川・イルティシュ川とその支流流域のシビル・ハン国に分裂した。



 ロシアがタタールに占領された時代はやがて終わりとなる。

 その立役者はイワン四世である。

 彼は1552年にカザン・ハン国を征服、1556年にはアストラハン・ハン国を併合した。

 クリミア半島のクリミア・ハン国は、15世紀中頃に、クリミア半島にいたチンギス・ハーン後裔の王族、ハージー1世ギレイによって建国された。

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 その後オスマン帝国の従属国となり、最盛期にはしばしばモスクワ大公国の領内に攻め込み、都市や農地を焼き払い、住民を捕虜として連れ去った。

 最終的には1783年に、ロマノフ王朝時のエカチェリーナ2世がクリミア・ハン国をロシア帝国に併合し、13世紀以来続いたジョチ・ウルスは完全に滅亡した。

 それでは、西シベリアに君臨していたシビル・ハン国はどうなったのだろうか。

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 この図の左がシビル・ハン国の版図で、最初にトゥラ川河口のチンギ・トゥラ(テュメン、現在のチュメニ付近)を根拠地とし政権を樹立、その後イルティシュ川沿いのカシリク(イスケルともいう、今日のトボリスクの付近)を首都として国を作り、オビ川・イルティシュ川とその支流の流域を支配し、黒テンなどの毛皮の取引を営んでいた。

 イワン四世が二つの遊牧国家を潰したあとは、モスクワ国家の属領を願いでて、イワン四世に毎年黒テンの毛皮1000枚を納め、年ごとに派遣された徴貢(公に率いられた人々が各地を訪れて税の取り立て、または寄食を行ってまわること)使に栗鼠の毛皮を納めていた。

 ほどなくシビル・ハン国内で変化が起こり、イワン四世との約束を守らなくなり、それどころかロシア領に入り込み毛皮を巻き上げるという乱暴者まで出てきた。

 イワン四世はシビル・ハン国を打つことに決めたが、自分でやればたとえ勝っても損害が大きいと考え、討伐をストロガノフ家に代行させた。

 ストロガノフ家はロシアの貴族で、16世紀から20世紀の帝政ロシアにおいて大商人、企業家、実業家、大地主、政治家を輩出した。

 ストロガノフ家の業務内容の主なものは製塩業や毛皮の取扱いであるが、農業(農地造成や農園経営)、狩猟、漁業、製鉄、鉱石採掘事業なども行っていた。

 ストロガノフ家が築いた資産は巨大で、この大資本は事実上企業組織で運営され、ロシア貴族のようにその領内で裁判権をも持っていて、実質的には国家に類似する存在であった。

 この大資本が、自分の手でシビル・ハン国を倒したいとイワン四世に願い出た。

 ストロガノフ家はシベリアへ進出したかった。

 シベリアの森には黒テンがふんだんにある、またシビル・ハン国を倒して中国への道が通じれば、中国貿易で大きな利益が転がり込んでくると考えた。

 イワン四世はストロガノフ家の願いを許可し、武装兵を持つ特権とシビル・ハン国攻撃のための城塞をつくる特権を与えた。

 そして、ここでやっと、今回の主役であるイェルマークの登場である。

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 イェルマーク・チモフェーイェヴィチ(1532年?〜1585年)はコサックの頭領で、かれらはボルガ川やカマ川流域で、船舶を襲ったり沿岸の村々を襲ったりして恐れられていた。

 ステンカ・ラージンの先輩のような存在だったのだろう。

 遊牧社会は氏族や氏族連合という集団の上に成り立っているが、コザックという存在はそこから外れている集団で、大集団の厳しい拘束から自由ではあるが、自由は同時に貧窮を意味し、蔑視の対象になった。

 コサックはロシア人の顔をしたタタールで、彼らはロシア社会からの逃亡者であった。

 農村社会においても貴族と農奴という単純な二元構造で出来ていたロシア社会からの逃亡者はおり、領主のむちと搾取から逃れてロシア社会の辺境でコサックとなった。

 こうしたコサック達の頭領であるイェルマークは、政府軍の追撃を逃れカマ川を遡っているうちに、ストロガノフ家の領内に入った。

 ストロガノフ家は政府から既に死刑を宣告されているイェルマークに、シビル・ハン国攻撃軍の総大将となるように持ちかけた。

 攻撃が成功すれば英雄となり富も手に入り死刑も取り消される、イェルマークはこの話に乗った。

 イェルマークがわずか500人程度のコザックを率いてイルティシュ川沿いのイスケルを目指したのは、1581年のことで、コロンブスの最初の航海よりも89年後のことである。

 9月に出発したイェルマーク隊はチゥソヴァヤ川を遡り、シビル・ハン国の兵士としきりに戦闘を繰り返し、冬営しながら翌々年の1583年にトボル川に出た。

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 トボル川を下ればイルティシュ川(古代以来、アジア遊牧民族の川ともいうべき流れで、その源はモンゴル高原の西の一辺を縁どるアルタイ山脈から発している)との合流点に出るが、そこがシビル・ハン国の首都イスケルなのである。

 当初はイェルマークもわずか500人程度のコザック部隊で、シベリアの玄関口に立つ巨大なシビル・ハン国を倒せるとは思ってもいないで、敵の硬所を避け軟部を狙って先に進んだ。

 大部隊に出逢えば河川に逃げ、しばしばタイガの民を襲い、かれらから黒テンを強奪した。

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 こんな戦い方をしているうちに、イェルマークはタタールが意外に弱いということを知った。

 それはタタールの主力となる武器が昔ながらの弓矢で、イェルマークの部隊が銃であったことに多く起因するようだ。

 銃を発射すれば彼らの矢が届く前に彼らを倒し、さらには彼らの馬を銃音で驚かせて軍団を散り散りにした。

 信じがたいことに、攻撃に出発してから2年後に、激戦の末ではあるが、シビル・ハン国の都のイスケルを陥落させ、その地を占領した。

 ストロガノフ家とイェルマークは、シビル・ハン国を敗走させて広がった新たなロシア領を皇帝イワン四世に献上した。

 彼らが皇帝にみやげとして持っていったのは2400枚もの黒テンの毛皮と、黒狐という珍獣の毛皮20枚、ビーバーの皮50枚というものだった。

 皇帝はイェルマークとその配下達を赦免し、皇帝自身が着用していた甲冑をイェルマークに与えた。

 その後、1585年8月、イェルマークの部隊は、シビル・ハン国の残党から急襲を受け壊滅状態となり、イェルマーク自身も戦死した。

 シビル・ハン国はイェルマークの死によって一時期は持ち直したが、その後ロシア人の大砲と小銃のために破砕され滅んだ。

 イェルマークは死んだが、彼の活躍により、ロシアのシベリア進出は加速した。

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