「鎌倉ものがたりと横須賀ストーリー」 その31 腰越状の満福寺を見学

 鎌倉高校前駅から江ノ電に乗り、次の駅である腰越駅に降りた。

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 江ノ電腰越駅傍の踏切を渡り、写真右手の海岸道路を向こう方向に歩いていく。

 約250メートル程歩き、再び踏切を渡ると、目の前が義経の腰越状で有名な真言宗大覚寺派の満福寺である。

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 踏切後方の階段を上がっていく。

 1185年5月、源義経が兄頼朝の怒りを買って鎌倉入りを許されず腰越の地に留められた際に、頼朝に心情を訴える腰越状をこの寺で書いた。

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 義経は腰越の満福寺に留まり、大江広元を通じて頼朝の許しを得ようとするが、許されることはなく再び京へ戻ることになる。

 境内を見て歩いた。

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 左手にあるのが力自慢の弁慶が腕試しをした手玉石だが、この他にも境内には弁慶の腰掛け石などが展示されていた。

 拝観券を買って、満福寺内に入った。

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 寺の中には、弁慶が書いた腰越状の下書きとされる書状が展示されていた。

 文中には、幼児の頃の哀話から父・義朝没落の経緯、挙兵の軍功のことなどが語られ、短いながらも一つの「義経物語」となっている。

 どんな事が書かれていたのか、腰越状の現代語約を興味深く読んでみた。(満福寺室内風景とともに紹介する。)

 恐れながら申し上げますが、私源義経は、御代官の一に選ばれ、朝敵を滅ぼし、先祖の恥をそそぎました。

 当然、行賞をいただけるはずのものを、意外の讒言によって足止めされ、そのうえ、何の罪も犯さないのにお叱りを受けるだけで、功績はあっても罪はない身に、御勘気をうけるのはあまりにも情けなく、むなしく涙をのんでいます。

 讒言の正否をただすこともなく、鎌倉へも入れられず、私の気持ちを述べることもかなわず、数日をむなしく過ごしました。

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 お会いしたいと思ってもできないのは、義経の運がつたないのか、前世の因果によってきたるところか、まことに残念の至りに思います。

 ここに、再び申し開きの状を書くのは、何か感傷的でありますが、義経が生まれていくばくもなく故頭殿(源義朝)は御他界になり、孤児となって、母の懐中に抱かれ、大和国宇陀郡竜門に身を潜めて以来というもの、一日とて安らかな思いなく、かいもない命をながらえていた次第です。

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 しかし時を得て、平家一族追討のために上洛し、まず木曽義仲を討ち、更に平家掃滅のため、ある時は岩山を駿馬にむちうち、命をかえりみず駆回りました。

 ある時は、洋々たる大海に波風をしのぎ、身を海底に沈めることもいとわず奮戦しました。

 すべて亡父義朝の悲しみをしずめ、源氏再興の宿願を達したいためにほかならず、義経個人の野心など、つゆばかりもありません。

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 それにもかかわらず、かように深く御勘気をうけては、この義経の心をどのように、お伝えして解っていただけるのか、神仏の加護に頼るほか道はないように思われ、数度にわたって起請文を差し上げましたが、いまだにお許しがないありさま、

 せめてここに貴殿の御慈悲を仰ぎ、義経の意中を頼朝殿にお知らせいただき、疑い晴れて許されたならば、永く栄華を子孫に伝え、平安と幸福を得たいと念願している次第です。

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 弁慶が書いたとされるが、なかなかの名文で義経の本音が伝わってくる。

 この腰越状を頼朝の側近である大江広元あてに送ったのだが、結果は周知のとおり。

 義経は許されることはなく、再び京へ戻ることになる。

 その後、頼朝との仲はさらに悪化し、ついには義経捕縛命令が出される。

 義経は逃亡の果てに、奥州平泉の藤原秀衡を頼るが、秀衡亡き後、頼朝を恐れた秀衡の子泰衡に攻められ、1189年4月30日に衣川館で自刃した。

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