越前と若狭の旅 その34 松平春嶽と岡倉天心を訪ねる  

 北の荘城址公園の次は、福井県にゆかりのある郷土の偉人である松平春嶽と岡倉天心のゆかりの地を訪ねた。

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 赤星印の場所に今夜の宿である宝永旅館があるが、旅館の近くにア;郷土歴史博物館とイ;松平春嶽ゆかりの養浩館庭園があり、そこからかなり離れてウ;岡倉天心郷家の跡(岡倉家の実家跡)がある。

 まず、郷土歴史博物館に入った。

 ここはじっくり見たかったが、大学生と小学生のそれぞれ30名ほどの団体二組の見学が気になり、頭の中に見学したはずの展示物が残らなかった。

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 ただ笏谷石を使った石棺の展示だけは頭に入った。

 越前の古墳から出土する石棺はそのほとんどが笏谷石製で、九頭竜川の流域に広範囲に広がっていて、笏谷石石棺の出現は継体大王の時代よりも古い古墳時代前期に遡るとされている。

 午前中に見学した足羽山山頂に建つ継体天皇像のある山頂の丘は、実は4世紀後半から5世紀前半につくられた円墳で、石像の下から笏谷石製の舟形石棺が発掘されている。

 足羽山の尾根上には直径30メートル以上の噴丘が並び、足羽山古墳群を形成して、これらの古墳からも笏谷石製の石棺が多く出土している。

 郷土歴史博物館では、福井の地で生活していた継体大王のことだけが記憶に残った。

 次に、松平春嶽ゆかりの養浩館庭園に入った。

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 養浩館庭園は福井城本丸の北約400メートルの場所に位置しており、旧福井藩主松平家の別邸として江戸時代には「お泉水屋敷」と呼ばれていた。

 現在の規模の建物と回遊式林泉庭園が完成したのは1699年で、その後拡大と縮小を繰り返した。

 1708年に第7代藩主松平吉品が御泉水屋敷を改築し、同時に自らの隠居屋敷として敷地を増設した上で新建造物を増築した。

 養浩館の名前は明治になってから同屋敷を所有していた元藩主の松平春嶽が名付けたもの。

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 松平春嶽は第16代越前福井藩主で、幕末から明治時代初期にかけて活躍した福井県が誇る偉大な政治家である。

 明治の元号は中国の書物である「易経」の中の「“明”に嚮(むか)いて“治”む」という言葉から名付けられたものだが、春嶽が明治天皇に提案したものだという。

 春嶽は8代将軍徳川吉宗が創設した御三卿の1つである田安徳川家の生まれで、吉宗の玄孫(やしゃご=孫の孫)に当たるという。

 幼少期から勉学や稽古など厳しくしつけられて育ち、1838年に福井藩主・松平斉善の急死に伴って養子となり、わずか11歳で藩主の座に就いた。

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 趣味の読書で培われた教養を武器に、春嶽は藩政改革を次々に断行していく。

 主な改革は

 領内の経済の安定化のための藩札発行

 西洋の科学技術や経済学を学ばせ人材を育成するための藩校「明道館」の開設

 橋本左内、中根雪江、三岡八郎(後の由利公正)など身分を問わない人材を登用

 対外政策や殖産興業派を登用し洋式大砲の製造開始

 全藩士の給料を3年間半減し自身の経費も5年間削減し予算を縮小し藩の経済を安定化など。

 二十歳にもならない10年間に行なったこれらの業績から、春嶽は名君と称され幕末四賢侯の一人と謳われている。(幕末の四賢侯:松平春嶽、伊達宗城、山内容堂、島津斉彬)

 幕政改革にも乗り出し、現代の内閣総理大臣に当たると言われる「政治総裁職」に就任した。(将軍後見職に一橋慶喜、京都守護職に松平容保)

 その後いろいろあって、春嶽が掲げた公武合体の理想は崩れ、大政奉還となり明治の世となる。

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 明治維新後の新政府では内国事務総督、議定、民部卿、大蔵卿などを歴任、徳川宗家を存続させるために赦免活動に努めたと言われている。

 明治政府の藩閥的で特権主義なやり方に当初から不満を抱いていた春嶽は、1870年に全ての官職を辞して政界を引退,亡くなるまでの20年間を執筆活動に専念した。

 松平春嶽の前を辞し、次の岡倉天心郷家の跡(岡倉家の実家跡)に向かった。

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 岡倉天心は明治という時代が生んだ巨匠で、有名な方なので彼の説明は省く。

 岡倉天心郷家の跡には見物人の影もなく、石碑だけが建てられていて、よほど興味のある方でなければ誰も見学に来ない様子だった。

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 今日は継体天皇から始まり、日本史上に残る福井市ゆかりの偉人たちと時間の許す限り対面でき、とても幸せな時間を過ごせた。

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