越前と若狭の旅 その41 疋檀城跡見学後、敦賀の旅館へ

 これから疋田集落にある歴史的旧跡である疋檀城跡に向かう。

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 疋壇城は室町時代の文明年間(1469〜1487年)に朝倉氏の部将・疋壇久保によって築かれた。

 疋田の地は、柳ヶ瀬越・塩津越・海津越といった越前と近江を結ぶ道が集まる交通・軍事上の要衝であり、越前朝倉氏の最南端防衛拠点として築城されたものである。

 疋壇城跡は疋田集落の西側の比高差20mほどの高台の上にあり、本丸の南下には曲輪があったようだが、明治に入って西愛発小学校が建てられた。

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 城址跡はその後破壊されてしまい、今はだだっ広い空き地になっていて、そこには西愛発小学校跡地の表示杭が立っていた。

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 これから本丸跡に上るが、坂の下には疋壇城跡の説明看板と、その横に「史跡疋壇城跡」の標石が立っていた。

 この坂を登ると本丸跡だが、本丸内は畑になっているために、どうしても本丸跡の実感が湧いてこなかった。

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 本丸は南北65m×東西45mほどの長方形で、畑にはなっているが周囲をめぐる高さ2mほどの土塁が良好に残っていて、中程に疋壇城跡の石柱も建てられていた。

 この城が栄えたのは100年間ぐらいで、1570年に織田信長が手筒山城を攻略した際に、金ヶ崎城と共にこの城も破壊された。

 信長軍の撤収後にいったんは修復されたらしいが、1573年8月の信長の越前進撃により城主疋壇六郎三郎は討ち死にし、城は完全に破却された。

 まさにここは、つわものどもの夢の跡である。

 疋田を出ると、一路今夜の宿である敦賀の竹野旅館に向かった。

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 竹野旅館は1泊2食付きで6480円の格安旅館で、部屋には冷房が入っていたが廊下はマトモに西陽が当たっていて、35度はゆうに越える体感温度となっていた。

 竹野旅館はユースホテル風な気楽な旅人宿で、そんな雰囲気もあり設備も整っていたので、この旅で初めて洗濯をした。

 夕陽のベランダで干した洗濯物はあっという間に乾いてしまった。

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 竹野旅館の夕食もユースを思い出すようなごくごく普通の家庭料理風なもので、翌日の朝食は更に更に家庭料理風で、何の違和感もなく残さず美味しくいただいた。

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