越前と若狭の旅 その42 気比の松原から愛発関へ

 朝食前に少しの時間ではあるが、敦賀市の景勝地である気比松原を散策したので、気比の松原を紹介してから竹野旅館を出発とする。

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 気比の松原には朝の6時半頃に付き、ここを20分程ほど散策した。

 この松原は日本三大松原の一つとされ、1934年に国の名勝に指定されていている。

 古くから景勝地として知られていて、万葉集や日本書紀にも詠まれており、日本の白砂青松100選に指定されている。

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 松原もその前の砂浜も、遥か向こうの山かげまで続いていて、松原の中には散策路がめぐらされている。

 夏の今は海水浴場として開放され、近畿地方や中京地方からも海水浴客が押しかけ、たいへんな賑わいとなるという。
美しい松原をバックに、この日最初の記念撮影をした。

 それではこれから、8月1日(土)の旅に出発する。

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 今日の日程である。

 西近江路で海津まで行き、そこから鯖街道を通って小浜まで、今夜の宿は小浜となる。

 畿内から北国に抜ける西近江路(現在の国道161号)は、海津から敦賀までは距離が七里半であったため、海津〜敦賀間は七里半街道と呼ばれていた。

 途中に小荒路・山中・駄口・追分・疋田の各宿場が置かれていて、またこの街道には古代の愛発関が置かれていたといわれている。

 この愛発関の位置についてここでふれたい。

 奈良女子大学教授の舘野和己氏の「古代越前国と愛発関」という論文から引用する。

 まず先行学説を四つ上げている。

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 一つ目は西近江路路上の山中にあったという説。

 二つ目は西近江路と塩津街道の合流点説で、これには更に追分説と疋田説がある。

 三つ目は白谷越えの道が越前に出てきた敦賀市雨谷、山あるいは御名付近とする説。

 四つ目は西近江路が平野部に出た辺りの敦賀市道口説。

 司馬遼太郎は「街道をゆく 北国街道と脇街道」の中で、この一つ目の説で愛発関を特定している。

 敦賀市の愛発関調査委員会は二つ目の説を重視し第8次調査まで行ったが、残念ながら関跡の手がかりをつかめていない。

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 舘野和己氏の説は、先行学説野内の四つ目の説をとっているが、ただし彼はこの場所を愛発関小関と把握している。

 愛発関大関のあったのは、奈良時代の北陸道の道である近江から若狭そして越前へと続く道の道中の、若狭から関峠を通って平野部へ抜ける関付近と推定している。

 この中で重要なのは、奈良時代と平安時代中期の延喜式の頃では北陸道の経路が違っているという事実である。

 「愛発関とはどこか」という問題一つをとっても、歴史の重要な課題であり、それは今でも大きな謎となって僕等の両肩に重くのしかかってくる。

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 敦賀市愛発関調査委員会の推定する愛発関の重要な候補地であるJR新疋田駅に立ち寄った。

 ここに、もしかすると愛発関(小関か大関かは問わない)が存在していたと想像するだけで何故か心がウキウキしてくる。

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駅舎内に入って、愛発の古代からやってくる電車を待っていたが、電車は僕がここにいる間は姿も見せなかった。

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