大阪散歩 その24   「大ヶ塚」を歩く

 これから、司馬さんの「街道をゆく 河内みち」の世界を散策するが、まず赤字1の「大ヶ塚」、次に赤字2の「観心寺」、更に赤字3の「広川寺」、最後に赤字4の「高貴寺」に行く。

画像


 最初に赤字1の「大ヶ塚」を目指した。
 「大ヶ塚」は石川支流の梅川が東側を北方に流れる高台に位置していて、村全体が自衛のために一つの濠で囲まれた中世の環濠集落である。

画像


 「大ヶ塚」は実は「台ヶ塚」から転じたものと司馬さんは推測していたが、高台の下にレンタカーを駐車して20~30m上にある集落まで這い上ってみると、ここがまさしく「台ヶ塚」であったことが実感できた。
 「大ヶ塚」は南北朝時代に楠木氏一族により城が築かれ、室町時代後期には根来寺の僧兵の勢力が入り、織田信長により根来衆が敗退した後に、村人が自衛のために根来衆の大ケ塚道場善念寺を久宝寺顕証寺に依頼し顕証寺の通寺としたことから、顕証寺の寺内町が形成されたという。

画像


 集落の中心となる顕証寺入り口まで歩いていくが、左手の建物は既に顕証寺の外塀である。
 「大ヶ塚」は、江戸時代には水運により大坂と結ばれていたことから、河内木綿・米・菜種などの集散地として栄え、酒造業も盛んであったという。
 1689年には儒学者の貝原益軒が立ち寄り、「民家五百廿(520)軒あり」と南遊紀行に書き記している。

画像


 外塀の中ほどに入り口があったので、ここから中に入っていく。

画像


 中に入ると、環濠集落の中心となる寺だけにりっぱな造りである。

画像


 ここは寺の山門のようであるが、なんだか城の砦のようにも見える。
 村の自衛のために造られた環濠都市の中心施設なので、寺と言ってもいざとなればここに籠って外敵と戦う場所となるので、その目的のために造られている箇所が随所に見受けられる。

画像


 この本堂の軒下には半鐘が吊り下げられているが、「真宗寺院につきものの半鐘が、この寺に限っては村人に急を告げるための自衛上の目的ではないか」と司馬さんが「街道をゆく 河内みち」で書いていたが、この寺の周囲を巡ったり本堂を覗いたりしていると、司馬さんの推測がどうやら正解のようで、「要塞集落大ヶ塚」と言ってもけっして過言でないように僕には思えた。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック