東京散歩Ⅱ その1 鴬谷駅から始まる旅


 「東京散歩Ⅱ」は真夏の旅立ったが、東京はまだ梅雨が明けてなくて、この日も曇り時々雨のはっきりしない天気だった。
 新潟を早朝に出ると東京までは2時間程なので、午前8時42分には上野に到着した。

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 ほぼ当初の日程通り谷根千を歩いたが、10日程の旅の荷物を運ぶ容量35Lのリュックは上野駅の新幹線から降りたすぐのところにあるコインロッカーに預け、山手線で鶯谷駅まで戻って鴬谷駅前から谷根千散歩を始めた。

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 鶯谷駅は妖しい駅で、この辺りを熟知している観光客なら絶対に近づかない場所だという。
 鶯谷駅を右往左往しながら鶯谷北口から外へ出たが、そこは林立するラブホテル群のど真ん中だった。
 赤字아(ア)がまず最初の目的地である子規庵、赤字이(イ)が次の目的地の寛永寺である。

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 鶯谷駅の北東方向一体に広がっている赤ハートマーク群は全部ラブホテルだそうで、もちろん昼からこのあたりはそういう目的の方々が押し寄せてくる場所なのだろう。
 駅前から子規庵まで案内してくれたこの辺りの住人と思われるおじいさんの話では、まともな観光客はけっして 鶯谷には降りず日暮里駅に降り、そこから谷根千を散歩するという。
 僕は最初からまともな観光客に見られなかったようである。

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 この両側に立ち並ぶホテル群は全部ラブホテルで、ここを歩いているだけでそういう目的の者だと誤解されそうである。
 もちろん、正岡子規がここに居住した頃はこのような関係の建物は建っていなかったはずで、その後この辺りはこういう街になったのだろう。

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 教えてもらった道を歩いているうちに子規庵に到着した。
 子規庵の建物は旧前田侯の下屋敷の御家人用二軒長屋といわれている。
 明治27年に子規はこの地に移り住み、故郷松山より母と妹を呼び寄せ、子規庵を病室兼書斎と句会歌会の場とした。
 ここで多くの友人や門弟に支えられながら、俳句や短歌の革新に邁進した。

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 この日は休庵ということで中に入ることが出来なくがっかりしたが、ブロック塀に子規庵の説明看板が掲示されていたので、あらためて子規という人物のことをこの場で確認した。

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 正岡子規(1867〜1902)は俳人・歌人・随筆家で、幼名は升(のぼる)本名は常規(つねのり)。
 伊予国藤原新町(現愛媛県松山市)に生まれ、俳句・短歌の革新を唱え、また写生文を提唱した。
 新聞「日本」及び俳誌「ホトトギス」により活動し、子規庵での句会には森鴎外、夏目漱石も訪れ、歌会には伊藤左千夫、長塚節等が参加し、歌誌「アララギ」の源流となった。
 子規はこの場所に1894年2月から住み、1902年9月19日に病のため没した。
 母八重と妹律は子規没後もここに居住し、その後は子規の門弟である寒川鼠骨が庵を守った。
 子規という人物の確認とともに、今回の「東京散歩Ⅱ」の旅の中で訪ねることとなる場所にゆかりの人物など(新聞「日本」、伊藤左千夫、妹律)のことも確認した。
 森鴎外、夏目漱石については前回の「東京散歩 本郷界隈」で旧居を訪ねているので、今回はそこには行かない。
 子規に思いを残しながら、次の寛永寺に向かった。

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