能登(日本道)への道 その9 須曽蝦夷穴古墳にて

 須曽蝦夷穴古墳の駐車場に車を停めて、正面の道を歩いていく。

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 150m歩けば、須曽蝦夷穴古墳に到着である。
 七尾市能登島須曽町に所在するこの古墳は、660年頃の古墳時代後期に造られた横穴式の方墳で、日本の古墳には例が少ない高句麗式の構造を備えている特徴がある。
 今回の旅は、日本と朝鮮半島や大陸との交流の痕跡を求めての旅でもあるので、高句麗の様式が認められるこの古墳を見ることは、今日一番の楽しみとなっていた。

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 150m程歩いて、国指定遺跡「須曽蝦夷穴古墳」到着である。
 この東西18.7m,南北17.1m、高さ約4.5mの方墳の墳丘の周囲を回りながら、二つの石室の入り口の方向へ歩いていく。
 歩いていくと、七尾湾が見えてきた。

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 この墳丘は七尾湾内に浮かぶ能登島の南岸に臨む字須曽の背後丘陵に所在し、このあたりの標高は約80メートルである。

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 墳丘を廻って石室の入り口に到着、左手が雌穴、右手が雄穴である。
 二基の石室とも長い羨道部をもち、全長約7メートル前後ある。
 雄穴と呼ばれる東側の石室は平面形はT字形で、雌穴の方は逆L字形に造っている。
 石室用材は能登島に産出する安山岩室板石である。

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 このT字形の石室を持つ雄穴に入っていく。

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 全長約7メートルの羨道部の突き当たりがT字型に分かれているのである。
 T字型の確認をした後、やや規模の小さい雌穴の方にも入って、逆L字形の確認をした。
 両方の穴とも、横穴が石室の長辺に接続し、石室の天井部は隅三角持送技法によりドーム状になっており、日本の古墳には例が少ない高句麗式の構造を備えていた。

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 石室から出ると、正面には七尾湾の絶景が広がり、やがて海は日本海へと繋がる。
 この古墳の被葬者は判っていないが、日本書紀には660年に越国守の阿倍比羅夫が二百隻の船団を率いて蝦夷地(現在の東北・北海道)に遠征した際、能登臣馬身龍が戦死したと記されているので、馬身龍の墓ではないかと推定されている。

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 能登は日本地図を大陸方向から眺めればこのようになり、大陸に最も近い日本の国の表玄関であることが一目で理解できる。
 須曽蝦夷穴古墳ができた時代は、日本にとっても朝鮮半島にとっても激動の時代で、百済は660年に滅亡し高句麗は668年に滅亡、日本は白村江の敗戦後律令国家への道を歩くことになる。
 朝鮮半島は統一新羅の時代となり、国を無くし朝鮮半島にいれなくなった人々は能登に渡ってきて、この古墳の建設に携わったということは考えられる。

 いずれにしても、日本海を挟んで向き合う国々とは古来から密接な交流があり、渡来人や漂流者も数多くこの地にたどり着き、能登半島先住の方々との混血も継続して行われ、彼らは現日本人の血の一部になったと推察される。
 高句麗との関係は特に密接で、570年頃には能登の道君(越の国造)が高句麗の使節を隠匿し、使節の貢物を私物化していた。
 この頃以降、高句麗使節の来着が活発化したという。
 雄大な日本海を眺めての、壮大な話であるstrong>。

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