東京散歩Ⅱ その34 深川散策 その2 芭蕉旧跡を散策
萬年橋を渡ってすぐのところにある芭蕉稲荷のある場所に行った。
稲荷のあるあたりに深川芭蕉庵があったと推定されている場所である。
芭蕉は杉山杉風に草庵の提供を受け、深川芭蕉庵と称して延宝八年から元禄七年大阪で病没するまでここを本拠とした。
「古池や蛙飛びこむ水の音」などの名句はここで生まれ、またここより全国の旅に出て、「おくのほそ道」などの紀行文を著した。
芭蕉没後、この深川芭蕉庵は武家屋敷となり幕末、明治にかけて滅失してしまい、正確な庵の位置は判らなくなった。
たまたま1917年の津波襲来のあとで、芭蕉が愛好したといわれる石像の蛙がここで発見され、故飯田源次郎氏等地元の人々の尽力によりここを 深川芭蕉庵とし、芭蕉稲荷を祀った。
芭蕉稲荷神社から隅田川方面へ向かって歩くと、芭蕉記念館の分館である「芭蕉庵史跡展望庭園」がある。
この古めかしい階段を上がっていくと、そこが史跡展望庭園である。
園内には芭蕉の像や芭蕉庵のレリーフが設置されており、古池や・・・の俳句をほうふつさせるかのように池が設置されていて、小さな紅白の錦鯉が十数匹ほど飼われていたが、カエルがいたかどうかは気づかなかった。
隅田川と小名木川の合流地点に位置しているため、この辺りの風景はなかなかのもので、芭蕉増の背後には清洲橋が望め、隅田川を行き交う屋形船なども楽しめるという。
しばし絶景を楽しんでから、江東区芭蕉記念館に向かった。
芭蕉遺愛の石の蛙の出土を受け、東京府はこの地を「芭蕉翁古池の跡」と指定し、江東区はこのゆかりの地に芭蕉の業績を顕彰するため、1981年4月19日に芭蕉記念館を設置した。
ここでは真鍋儀十翁等が寄贈された芭蕉及び俳文学関係の資料が展示されており、文学活動の場も提供している。
特に「おくのほそ道」関係の展示に興味があったので、その関係資料の展示を見て回った。
芭蕉は1680年に日本橋から深川に移り住んだが、2回住み替えた深川の居はいずれも隅田川と小名木川に挟まれた川辺であった。
また、「おくのほそ道」の出発地点が芭蕉庵ではなく、採茶庵という場所だったこともここで初めて知った。
隅田川から船を降りて「おくのほそ道」の旅に出た千住は既に見たので、これから「おくのほそ道」の旅のスタート地点となった採茶庵に向かう。
稲荷のあるあたりに深川芭蕉庵があったと推定されている場所である。
芭蕉は杉山杉風に草庵の提供を受け、深川芭蕉庵と称して延宝八年から元禄七年大阪で病没するまでここを本拠とした。
「古池や蛙飛びこむ水の音」などの名句はここで生まれ、またここより全国の旅に出て、「おくのほそ道」などの紀行文を著した。
芭蕉没後、この深川芭蕉庵は武家屋敷となり幕末、明治にかけて滅失してしまい、正確な庵の位置は判らなくなった。
たまたま1917年の津波襲来のあとで、芭蕉が愛好したといわれる石像の蛙がここで発見され、故飯田源次郎氏等地元の人々の尽力によりここを 深川芭蕉庵とし、芭蕉稲荷を祀った。
芭蕉稲荷神社から隅田川方面へ向かって歩くと、芭蕉記念館の分館である「芭蕉庵史跡展望庭園」がある。
この古めかしい階段を上がっていくと、そこが史跡展望庭園である。
園内には芭蕉の像や芭蕉庵のレリーフが設置されており、古池や・・・の俳句をほうふつさせるかのように池が設置されていて、小さな紅白の錦鯉が十数匹ほど飼われていたが、カエルがいたかどうかは気づかなかった。
隅田川と小名木川の合流地点に位置しているため、この辺りの風景はなかなかのもので、芭蕉増の背後には清洲橋が望め、隅田川を行き交う屋形船なども楽しめるという。
しばし絶景を楽しんでから、江東区芭蕉記念館に向かった。
芭蕉遺愛の石の蛙の出土を受け、東京府はこの地を「芭蕉翁古池の跡」と指定し、江東区はこのゆかりの地に芭蕉の業績を顕彰するため、1981年4月19日に芭蕉記念館を設置した。
ここでは真鍋儀十翁等が寄贈された芭蕉及び俳文学関係の資料が展示されており、文学活動の場も提供している。
特に「おくのほそ道」関係の展示に興味があったので、その関係資料の展示を見て回った。
芭蕉は1680年に日本橋から深川に移り住んだが、2回住み替えた深川の居はいずれも隅田川と小名木川に挟まれた川辺であった。
また、「おくのほそ道」の出発地点が芭蕉庵ではなく、採茶庵という場所だったこともここで初めて知った。
隅田川から船を降りて「おくのほそ道」の旅に出た千住は既に見たので、これから「おくのほそ道」の旅のスタート地点となった採茶庵に向かう。
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