探検家列伝第4部 プロローグ

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 探検家列伝第一部は、北極、南極、世界の最高峰「ヒマラヤ」、世界の7サミットを目指した探検家・冒険家達を取り上げた。

 探検家列伝第二部は、世界の7サミットと関野吉晴「グレートジャーニーの旅」にあやかり、世界5大陸の最長河川をアマゾン川、ミシシッピ川、長江、ボルガ川、ナイル川と、その河口から源流まで極める旅に出た。

 探検家列伝第三部は、オホーツク海の周辺地域及びシベリアの大地を探検した日本とロシアの探検家達を交互に取り上げた。

 探検家列伝第四部は、18世紀後半から19世紀前半にかけて活躍した日本の探検家達を取り上げる。
 それは日本人による日本の北の辺境の地である「蝦夷(北海道、樺太)と千島列島」の探検の物語である。
 かって日本の北の辺境の地には、大和民族(日本民族、和人ともいう)以外の民族が住んでいた。

 ここからは、日本の辺境地域に進出した松前氏までの日本の辺境史を考察してみたい。
 今の日本人の祖型となった人々は、ウルム氷期の狩猟民の子孫である縄文人と、農耕の技術を持参して大陸から日本列島へ渡来した弥生人である。
 彼らが混血して日本人の祖型が出来上がり、古墳時代の大和朝廷の勢力の拡大とともに「日本」という枠組みの原型が作られ、文化的・政治的意味での日本民族が徐々に形作られていく。

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 7世紀後期の天武・持統期の律令制導入は天皇中心の国家体制を確立させ、13世紀の元寇は日本民族に「日本」や「日本人」という意識を浸透させていく契機となった。
 天皇を中心とする日本の国の北方辺境への進出は、稲作文化による狩猟採取文化の淘汰の歴史でもあった。
 古代、本州東部とそれ以北は日本の管轄外の地域であり、そこに住んでいたのは日本やその支配下に入った地域への帰属や同化を拒否していた蝦夷と呼ばれた集団だった。

 蝦夷と呼ばれた集団はアイヌばかりではなく、日本人につながるものもいた。
 蝦夷についての形式上最も古い言及は「日本書紀」で、神武天皇の東征軍を大和地方で迎え撃ったのが蝦夷であったとされる。(この頃は大和地方も蝦夷地だった。)
 7世紀頃には、蝦夷は現在の宮城県中部から山形県以北の東北地方と北海道の大部分に広く住み、その一部は日本の領域の中にあった。
 日本が支配領域を北に拡大するにつれて、しばしば防衛のために戦い、反乱を起こし、又国境を越えて襲撃を行った。

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 最大の戦いは胆沢とその周辺の蝦夷との戦いで、780年に多賀城を一時陥落させた伊治呰麻呂、789年に巣伏の戦いで遠征軍を壊滅させた阿弖流為(アテルイ)らの名がその指導者として伝わる。
 日本は大軍で繰り返し遠征、征夷大将軍坂上田村麻呂が胆沢城と志波城を築いて征服した。
 蝦夷は平時には交易を行い、昆布・馬・毛皮・羽根などの特産物を日本にもたらし、蝦夷は代わりに米・布・鉄を得た。

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 9世紀に蝦夷に対する朝廷からの征服活動は、岩手県と秋田県のそれぞれ中部で停止した。しかしその後も、現地の官僚や俘囚の長たちは、蝦夷内部の紛争に関与し続け、地方権力から支配を浸透させた。
 こうして、東北地方では12世紀には蝦夷としての独立性は失われた。
 中世以後の蝦夷は、アイヌを指すとの意見が主流である。(ただし中世の蝦夷はアイヌのみならず後に和人とされる渡党も含む。)
 13世紀から14世紀頃には、現在アイヌと呼ばれる民族と同一とみられる蝦夷が存在していたことが文献史料上から確認される。

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 アイヌの大部分が居住していた北海道は蝦夷が島や蝦夷地などと呼ばれた。
 14世紀には、「渡党」(近世の松前藩の前身)、「日の本」(北海道太平洋側と千島。近世の東蝦夷)、「唐子」(北海道日本海側と樺太。近世の西蝦夷)に分かれ、渡党は和人と言葉が通じ、本州との交易に従事したという文献(『諏訪大明神絵詞』)が残っている。
 また、津軽地方の豪族である安東氏が、鎌倉幕府北条氏より蝦夷管領(または蝦夷代官)に任ぜられ、これら三種の蝦夷を統括していたとする記録もある。

 15世紀から16世紀にかけて、渡党を統一することで渡島半島南部の領主に成長していった蠣崎氏は、豊臣秀吉・徳川家康から蝦夷地の支配権、交易権を公認され、名実共に安東氏から独立し、江戸時代になると蠣崎氏は松前氏と改名して大名に列し、渡党は明確に和人とされた。



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