謎の海洋民族オホーツク人とオホーツク文化を訪ねる旅その2 抜海岬にて

  司馬遼太郎の「オホーツク街道」冬の旅には稚内付近はこんな風に紹介されている。

 『地図をひろげてみた。こぶしをつきだして親指を立てると、稚内半島である。低い丘陵が背になっている。親指の爪の先が野寒布岬である。さらに人さし指を立てると、その指先が宗谷岬で、親指と人さし指のあいだの海面が、宗谷湾としてひろがっている。』

 親指と人差し指という喩えは実際と相当違っていて、余程指の短い人でないとこういうふうに言えない。司馬遼太郎は須田画伯と一緒に旅をしているので、絵描きさんの感覚でデフォルメして言っているのだろうか。

 

 僕は国道40号線を稚内まで出て、司馬遼太郎の旅に沿って、日本海に出て抜海に向かうため、道道106号線を南下して20分程走って抜海港に到着した。

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 ここは、明治時代までは沖の礼文・利尻両島への渡海地だった。

 港からは利尻富士が実にはっきりと見える。

 この港では鮭が回遊して来るということで、地元の釣り人が数人でルアーロッドを振っていた。 

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 これが抜海岬の全景である。

 写真右手に抜海の地名の元になった岩があるので近づいて見る。

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 親亀の背中に子亀を載せてではなく、大岩の上に小岩を載せている、面白い岩の風景である。

 山田秀三『北海道の地名』の中で、抜海の地名はこの岩の様子から来ており、パッカイ・ペ(子を・背負う・もの)からきたのだろう、と解釈している。

 ここにはアイヌも住んでいて遺跡もあるが、伝説も残っている。

 その伝説が、丘のそばの掲示板に書かれている。

 


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 いつのころか、この地の天塩アイヌが、宗谷アイヌと戦争をしたのだそうである。

 そのとき礼文アイヌが天塩アイヌと同盟をし、礼文島代表として一人の勇ましい若者がやってきて、この地のアイヌの美しい娘と恋をした。

 子もなした。ところがこの若者は礼文島が恋しくなって、島へ帰ってしまった。


 なげいた若い母が子を背負ってこの丘に立った。

 夫のいる礼文島が見える。なげくうちに、岩になったというのである。

 どこにもあるありふれた話だが、こんな話を読んだりこのあたりの風景に浸っていると、この地に生活していたオホーツク人アイヌ人の声が聞こえるような気になってくる。


 

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