奈良散歩 その11 手向山八幡宮と三月堂
十分に廬舎那仏や大仏殿を見た。
このあと、赤⇒の道を通って手向山八幡宮や三月堂、四月堂などを見ることにした。
その道中で、東塔院跡発掘調査中と書かれた遺跡発掘現場に出会った。
ここは大仏殿で見た右側の塔の在った場所で、早ければ20年後に100mクラスの七重の塔が再建される場所のようである。
東塔は東塔院とも呼ばれ、重厚な回廊が塔を囲んでいたというが、1180年に平氏に焼き打ちされて焼失した。
その後鎌倉時代に再建されたが、南北朝時代の1862年に落雷で再び焼失したとされている。
手向山神社とあるが、ここから手向山八幡宮である。
この手向山八幡宮は、東大寺及び大仏を建立するにあたって749年に宇佐八幡宮より東大寺の守護神として勧請された。
当初は平城宮南の梨原宮に鎮座したが、後に東大寺大仏殿南方の鏡池付近に移座し、1180年の平重衡による戦火で焼失て、1250年に北条時頼が現在地に再建した。
手向山はまた紅葉の名所としても知られており、古今和歌集では菅原道真が「このたびは幣もとりあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに」と詠んでいる。
その紅葉の季節には、手向山はまだ少し早いようである。
道真は平安初期の公卿で、漢学者であり政治家としても大活躍した。
宇多・醍醐の両天皇に信頼され、文章博士になった後に右大臣にまで上り詰めたが、左大臣藤原時平たちのはかりごとにより、大宰権師に左遷され九州の地で亡くなった。
この和歌は898年の秋に道真が宇多上皇にお供して吉野へ行く途中、一行が道祖神への供え物を忘れてきたことに気づき、その時に詠んだ和歌だと伝えられている。
現代語に訳せば、下記のようになる。
「今度の旅は急いで発ちましたので、捧げるぬさを用意することも出来ませんでした。しかし、この手向山の美しい紅葉をぬさとして捧げますので、どうかお心のままにお受け取りください。」
菅家の世界に遊びながら、手向山八幡宮をあとにした。
次に法華堂(三月堂)である。
内部は撮影禁止となっていたので、ネットにて紹介する。
法華堂は奈良時代建立の仏堂で一般に三月堂として知られ、日本の国宝に指定されている。

1.不空羂索観音、2.梵天、3.帝釈天、4.金剛力士(吽形)(密迹力士)、5.金剛力士(阿形)、6.四天王のうち持国天、7.四天王のうち増長天、8.四天王のうち広目天、9.四天王のうち多聞天、10.執金剛神、11.伝・日光菩薩、12.伝・月光菩薩、13.吉祥天、14.弁才天、15.地蔵菩薩、16.不動明王

多くの仏像があったが、ここでは正面の不空羂索観音だけ紹介する。
この像は脱活乾漆造で像高362cmセンチメートルあり、天平時代を代表する仏像彫刻の1つで国宝となっている。
不空羂索観音は密教系の変化観音であり、バラモン教のシヴァ神を起源とする。
羂は獣をとらえる網、索は魚釣り糸を意味し、慈悲の羂索を持ち、あらゆる衆生をもれなく救う観音である。
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