奈良散歩 その17 正倉院と転害門

 次に黄線の道を辿って、二ツ池(大仏池)からの絶景を眺めながら正倉院へ向かった。

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 大仏池周辺の風景は東大寺に相応しい気持ちのいい絶景である。

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  この池は、江戸時代はこのあたりの村の用水として造られ、その後正倉院の防火用水池として改修された。

そういう経緯で、正倉院南池と称する研究家もいるそうで、池の向こう側に見える建物が正倉院である。


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   大仏池を半周して正倉院の門に到着したが、目的の正倉院宝庫はここからは見れない。

周囲を囲っている塀伝いに歩いて、正倉院宝庫前まで行った。


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  奈良時代や平安時代の中央と地方の官庁や大寺には、重要物品を納める正倉が設けられていて、この正倉が幾棟も集まっている一廓が正倉院と呼ばれていた。

しかし、あちこちに置かれた正倉院は歳月の経過とともに無くなってしまい、わずかにこの東大寺正倉院内にあるこの正倉院宝庫だけが残った。


正倉院宝庫の始まりは756年6月21日である。


光明皇太后は夫である聖武太上天皇の七七忌に際して、天皇遺愛の品約650点、及び60種の薬物を東大寺の廬舎那仏(大仏)に奉献した。


光明皇太后はその後も3度にわたって自身や聖武天皇ゆかりの品を大仏に奉献し、これらの献納品は正倉院に納められた。


献納品目録である献物帳は五巻からなり、それぞれ「国家珍宝帳」、「種々薬帳」、「屛風花氈等帳」、「大小王真跡帳」、「藤原公真跡屛風帳」と通称されている。


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  この建物が正倉院宝庫であるが、北倉、中倉、南倉に区分されている。

北倉には主に聖武天皇と光明皇后のゆかりの品が収められ、中倉には東大寺の儀式関係品、文書記録、造東大寺司関係品などが収められていた。


南倉には、仏具類のほか、東大寺大仏開眼会に使用された物品などが納められていた。


この正倉院宝庫は奈良時代から朝廷の監督の下に東大寺によって管理されてきたが、1875年に宝物の重要性にかんがみ内務省の管轄となり、次いで農商務省を経て宮内省に移った。


なお現在、宝庫は古来の正倉のほかに西宝庫と東宝庫があって、いま宝物はこの両宝庫に分納して保存されているという。


奈良時代の建物である正倉院を見たあと、次に同じく奈良時代の建物である転害門に行った。


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  正倉院を回って来たので、まず転害門の中側から門を見た。

転害門はきたまちの東端、正倉院の西側に位置していて、かって東大寺境内の西側にあった3つの門のうちで唯一現存する門である。


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  門の表側へ回って正面から、奈良時代の762年に建立されて三間一戸八脚門という形式を持つ、堂々たる転害門を見た。

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  この門は、1180年の平重衡の兵火、1567年の三好・松永の戦いの2回の戦火にも焼け残った寺内で数少ない建物のひとつで、奈良時代の東大寺の伽藍建築を想像できる唯一の遺構となっており、鎌倉時代の修理で改変されてはいるが基本的には奈良時代の建物である。

しばし奈良時代を感じながら、午後3時前には転害門をあとにし、夕食を買うためにすぐ前にある手貝町バス停からバスに乗り、近鉄奈良駅前バス停で降りた。


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