暑い最中にでかけた、古代ロマンのプンプンした「城の山古墳」調査現場説明会その2

  城の山古墳は4世紀前半代の築造と考えられ、県内で3番目の大きさの古墳。

 前期古墳としては日本海沿岸で最北の古墳である。



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 古墳時代は、3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までの約400年間を指すことが多いが、3世紀後半から、4世紀初め頃が古墳時代前期である。



 古墳時代にヤマト王権が倭の統一政権として確立していく。



 前方後円墳はヤマト王権が倭の統一政権として確立してゆく中で、各地の豪族に許可した形式であると考えられているが城の山古墳は前方後円墳のさきがけと位置付けられる円墳と考えられている。



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        長さ8m、幅1.5mの長大な木棺



 城の山古墳が作られた時期に、実在したとされる天皇が崇神天皇その治世は3世紀後半から4世紀初頭とされる。



 日本書紀の崇神(すじん)天皇10年9月には、大和から東西に4つの遠征軍(四道将軍)が派遣されたと記されている。



 具体的には、大彦命(おおびこのみこと)を北陸に、武渟川別(たけぬなかわわけ)を東海道に、吉備津彦(きびつひこ)を西海に、丹波道主命(たにわのみちぬしのみこと)を丹波に遣わされた」とされる。


 古事記の記述では、大彦命は阿賀野川をさかのぼり、会津で太平洋側から遠征してきた武渟川別と出会った。「会津」(福島県)の命名伝承だ。


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       木棺の中央部には1700年を経た太刀が・・・



 それを裏付けるように、会津盆地には会津大塚山古墳など4世紀代の古い前期古墳が築かれている。



 城の山古墳の畿内的要素が確認されたことで、これらの伝承の背景となる史実の存在も浮上してきたのだ。



 これまで、越後には直接、畿内と関係した副葬品や埋葬主体を持った古墳はないとされていた。



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   埋葬者の頭の位置には勾玉(まがたま)と管玉(くがたま)が・・・



 大化3(647)年、大和朝廷はいまの新潟市東区付近に、蝦夷(えみし)征討のための城柵(沼垂の柵)を設けた。この時期すでにここは古代国家の日本海側の最前線だった。



 城の山古墳は、それより300年前。この地に、既にヤマトの影響が及んでいたことを物語っている。



 今までの古代史像が書き換えられる発見ということになった。


 

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