奈良散歩 その46 秋篠寺本堂の周りを歩く


秋篠寺の本堂の周りをぶらぶらと歩いている。






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  けっこう紅葉がいい具合になってきているが、見ごろとなるのはもう少し経ってからである。




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  それではこれから本堂に入っていく。

本堂の中であるがもちろん撮影は禁止で、写真はネットからの借用である。





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   本尊は薬師如来で、薬壺(薬師如来が唯一の持ち物で、疫病を治して寿命を延ばし、災いを消す御守り)を左手に持ってどっしりと座っていた。

両脇には、もちろん日光菩薩と月光菩薩が立っている。





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  この寺のスーパースターである伎芸天は一番左端に立たれていて、一番右には帝釈天が立たれていて、右に6体左に6体の12神将が立たれている。

伎芸天の全身像はこんなで、堀辰雄の文章を添えながら見てみる。





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 「このミュウズの像はなんだか僕たちのもののような気がせられて、わけてもお慕わしい。朱い髪をし、おおどかな御顔だけすっかり香にお灼けになって、右手を胸のあたりにもちあげて軽く印を結ばれながら、すこし伏せ目にこちらを見下ろされ、いまにも何かおっしゃられそうな様子をなすってお立ちになっていられた。」




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  実際に見ている伎芸天の本物を見た時は、この寺に来るまでにあまりに素晴らしい仏像群を見てきたので、何の感動も覚えなかったのを覚えているが、1年後の今ネットで見ている写真の方が感動を覚えるのはどうしてなのだろう、素直に堀辰雄の文章が心の中に入ってくるのである。




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  本堂を1周しながら、光仁天皇成立後の歴史の続きを復習している。

光仁天皇誕生の立役者である左大臣藤原永手は即位の翌年7712月に亡くなり、7723月に皇后・井上内親王が天皇を呪詛したとして廃后され、同年5月にはそれに連座して他戸親王の廃太子される事件が起こった。


これによって翌年1月に光仁天皇の実子の山部親王(のちの桓武天皇)が立太子となった。





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  本堂裏にはこの鐘楼もあった。

話を戻して、奈良時代もどの時代も、天皇の継承者としての地位である皇太子争いが皇族の間では頻繁に起こっていて、呪い殺したり毒殺したりは珍しい事件ではなかった。


ところが、この事件の二年後の777年に国のナンバーワンである光仁天皇、ナンバーツウである皇太子の山部親王が相次いで病に倒れるという事態が起き、光仁天皇達はこれらのことは井上内親王と他戸親王の怨霊に祟られているからだと考えたのであろう。


秋篠寺の創建時期には776年説と780年説の二説があるが、井上内親王と他戸親王の怨霊の祟りと恐れられた時期と秋篠寺の創建時期が符合しているのは、秋篠寺が井上内親王と他戸親王の怨霊を鎮めるために、彼らの魂を鎮魂するために建てられたと考えれば納得できる話である。





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   ここが本堂の真後ろで、人間も建物も常に見られるということで、前の顔には化粧があるのでこの後ろの顔よりずっと綺麗である。

その後桓武天皇は怨霊に呪われた奈良の都を捨て、平安の都に遷都したのであるが、秋篠寺の綺麗な顔の裏に怨霊を鎮める裏の顔があることを再確認して、この寺を静かに去った。


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