「日本最長10河川の旅」での釣り 北上川への旅 その10 早熟の天才少年と誰もが認める男を愛した女の話  

僕は、啄木が好きだったという鶴飼橋の方へ歩いて行った。
この辺りの北上川の川幅は30mである。

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小学生の頃の啄木は、夕暮れになると友達を連れ出して鶴飼橋に行ったという。
 橋の上から上流方向には姫神山、下流方向には岩手山が見える。
 丁度その頃、月は東の峰にのぼり、日は西の峰に落ちる。

ここを舞台にして啄木は小説「鳥影」を書き「鶴飼橋に立ちて」という詩を書いた。
ここは早熟の天才少年と誰もが認める啄木の恋物語の舞台でもあった。
 彼の恋の相手をそろそろこの辺で登場させることにする。
 もう源流へ行く時間が迫ってきている。
 限られた時間での制限の多い源流釣行の旅である。

彼の妻となる節子は、父堀合忠操、母トキ(旧姓石井)の第一長女として明治19年(1886年)に生まれた。
忠操の父忠行は、南部家の家臣加藤家の出で、同じく家臣堀合家の養子となり、節子生誕当時、父忠操は岩手郡役所に奉職していた。
その後、堀合一家は、節子生誕の36ヵ月後の明治23年(1890年)4月、上田新小路から新山小路に移り、そこで20年あまり過ごした後、明治44年に函館に移っている。

石川啄木(1886-1912)と堀合節子が出会ったのは、明治32年の頃といわれ、共に満13のときだった。
 啄木は盛岡中学2年生、節子も縞木綿の着物に、紫の袴を胸高にはいて、私立盛岡女子校に通う2年生だった。
 節子と同級生だった和久井(旧姓金矢)のぶ子の記憶によると、節子は4年の2学期ころから、学校を休んで啄木の下宿へ行き、短歌を教わっているという評判がたっていたという。
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彼女は夜など、鶴飼橋の近くに住んでいた和久井のぶ子の家へ勉強しにいくと称して教科書を持って家を出て、その実、啄木の下宿へ行って詩や音楽のことを語り合っていたらしい。
啄木の友人の佐藤善助によると、そのときすでに二人の関係は精神的なものをこえて、肉体によって結ばれているように見えたという。

啄木の中学生時代に芽生えた堀合節子との恋は、その後大人たちの知るところとなり、二人は引き裂かれた。
 もと士族であり、岩手郡役所に勤務していた節子の父堀合忠操は激怒した。
 しかし忠操の姉がとりなして、節子は思いつめているから許さなければ自殺するかもしれないと脅かして、忠操の怒りをやわらげて二人の仲はいちおう認められた。

明治372月3日、啄木の老母は盛岡の堀合忠操の家を訪問して、啄木と節子の縁談を正式に決定した。
 当時の啄木は中学を退学して、文学で身を立てようと考え、婚約してまもなく上京して詩集「あこがれ」を出版した。

一部からは天才詩人との評判を得たが、残本多くあてにしていた印税も入らず、上京中の啄木のもとに結婚式の日取りの知らせがあり、啄木は盛岡へ行くため汽車に飛び乗った。 
しかし、盛岡へは予定していた結婚式の日になっても帰らなかった。

やむなく婿のいない結婚式を挙げたのである。
 明治
38(1905)5月のこと、早熟な極貧天才歌人を愛した女の青春時代の話である。


啄木は月が変わって6月4日に、新妻が待つ盛岡市帷子小路8番戸の新居に姿を現わした。
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その後、啄木と一家は北海道へ渡るのだが、その話はここではしないでおく。
 

  啄木は明治
45年4月13日に死去し、妻節子も青春しか知らない人生のまま、啄木の死去した1年後の大正2年5月5日に死去する。
ともに26歳の、短い、青春のみの生涯だった。
 
僕の啄木の旅も、この辺で終わりにしていよいよここから30km程の北上川の源流地へ向かう。div>

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