越前と若狭の旅 その12 一乗谷朝倉氏遺跡に入る

一乗谷朝倉氏遺跡は、福井市街の東南約10キロメートル、九頭竜川水系足羽川支流である一乗谷川下流沿いの細長い谷あい(一乗谷、東西約500メートル、南北約3キロメートル)に築かれた戦国時代の城下町と館跡および背後の山城の遺跡である。

一乗谷は、東、西、南を山に囲まれ、北には足羽川が流れる天然の要害で、周辺の山峰には城砦や見張台が築かれ、地域全体が広大な要塞群であった。

また、三国湊に続く足羽川の水運や大野盆地に通じる美濃街道、鹿俣峠を抜け越前府中へ続く街道などが通り交通の要衝でもあった。

さらに、一乗谷は北陸道より数キロメートル東寄りに位置するため、朝倉街道が整備され北陸道と連絡していた。

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これから一乗谷に入っていく。

一乗谷では谷の南北に城戸を設け、その間の長さ約1.7キロメートルの「城戸ノ内」に、朝倉館(武家屋敷)をはじめ、侍屋敷、寺院、職人や商人の町屋が計画的に整備された道路の両面に立ち並び、日本有数の城下町の主要部を形成していたという。

一乗谷朝倉氏遺跡は日本のポンペイと言われている。

古代都市ポンペイは西暦79824日に起きたベスビオ火山の大噴火で火山灰に埋もれ、その後1700年を経て本格的な発掘調査で発見されたイタリアのナポリ郊外にある遺跡である。

一乗谷遺跡は、ポンペイと同じような歴史を持っている。

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戦国時代に越前の国を支配した朝倉氏は、この地に山城の一乗谷城と山麓の館および城下町を築いて、往時は1万人余りの人口を抱え100年の繁栄を誇った。

しかし、15738月、織田信長の軍が一乗谷に攻め込み、柴田勝家は方々に放火を命じ火は三日三晩燃え続け、一乗谷の城下町はすっかり灰燼に帰した。

その後、一向一揆を壊滅させた柴田勝家は北の庄に築城を始めると焼け野原となった一乗谷は見捨てられ、朝倉氏五代の城下町の跡は田畑・原野となってそっくり埋もれてしまった。

一乗谷朝倉氏遺跡の発掘調査が開始されたのは、それからおよそ400年後の1968年からで、発掘により一乗谷川に沿った狭い平地部に築かれた朝倉氏5代の居城と、その周辺に計画的に配置された武家屋敷、寺院、そして職人たちの町屋の遺構が発見された。


考古学者気分で一乗谷朝倉氏遺跡に入り、長さ約1.7キロメートルの「城戸ノ内」を1回走り抜けた。

それから、復元街並遺跡に向かった。

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都合のいいことに、観光バスから降りた40人ほどのツアー客が案内ガイドに連れられて復元街並遺跡に入っていくところだったので、その方々に便乗してガイドの話を聴いたり復元された遺跡を見たりすることにした。

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山と川の間の広いスペースに掘り出された遺構が広がり、正面には復元された街並みが見えている。


越前朝倉氏は、南北朝時代に越前国守護・斯波氏に仕えた朝倉広景から始まる。

越前朝倉氏は甲斐氏、織田氏に次ぐ斯波三守護代の第三席となり、のちに守護代三家で斯波氏領国三国を分けることになる。

室町時代には朝倉孝景が守護代甲斐常治とともに主である斯波義敏と対立し、足利将軍家の家督争いなどから発展した応仁の乱では山名宗全率いる西軍から細川勝元率いる東軍に属し、越前から甲斐氏を追う。

朝倉孝景は越前国守護に取り立てられ一乗谷城に拠った。


朝倉氏の栄華の跡を歩いて行く。

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これは復元された井戸の遺構である。

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