岡倉天心「茶の本」 第三章  道教と禅道 その3 道教と美学


 道教思想の雄渾なところは、その後続いて起こった種々の運動を支配したその力にも見られるが、それに劣らず、同時代の思想を切り抜けたその力に存している。
 秦朝、といえばシナという名もこれに由来しているかの統一時代であるが、その朝を通じて道教は一活動力であった。

 もし時の余裕があれば、道教がその時代の思想家、数学家、法律家、兵法家、神秘家、錬金術家および後の江畔自然詩人らに及ぼした影響を注意して見るのも興味あることであろう。
 また白馬は白く、あるいは堅きがゆえにその実在いかんを疑った実在論者や、禅門のごとく清浄、絶対について談論した六朝の清談家も無視することはできぬ。
 なかんずく、道教がシナ国民性の形成に寄与したところ、「温なること玉のごとし」という慎み、上品の力を与えた点に対して敬意を表すべきである。


 シナ歴史は、熱心な道教信者が王侯も隠者も等しく彼らの信条の教えに従って、いろいろな興味深い結果をもたらした実例に満ち満ちている。
 その物語には必ずその持ち前の楽しみもあり教訓もあろう。
 逸話、寓言、警句も豊かにあろう。
 生きていたことがないから死んだこともないあの愉快な皇帝と、求めても言葉をかわすくらいの間がらになりたいものである。
 列子とともに風に御して寂静無為を味わうこともできよう、われらみずから風であり、天にも属せず地にも属せず、その中間に住した河上の老人とともに中空にいるものであるから。
 現今のシナに見る、かの奇怪な、名ばかりの道教においてさえも、他の何道にも見ることのできないたくさんの比喩を楽しむことができるのである。
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 しかしながら、道教がアジア人の生活に対してなしたおもな貢献は美学の領域であった。
 シナの歴史家は道教のことを常に「処世術」と呼んでいる、というのは道教は現在を、われら自身を取り扱うものであるから。
 われらこそ神と自然の相会うところ、きのうとあすの分かれるところである。
 「現在」は移動する「無窮」である。
 「相対性」の合法な活動範囲である。
 「相対性」は「安排」を求める。
 「安排」は「術」である。
 人生の術はわれらの環境に対して絶えず安排するにある。
 道教は浮世をこんなものだとあきらめて、儒教徒や仏教徒とは異なって、この憂世の中にも美を見いだそうと努めている。

 宋代のたとえ話に「三人の酢を味わう者」というのがあるが、三教義の傾向を実に立派に説明している。
 昔、釈迦牟尼、孔子、老子が人生の象徴酢瓶の前に立って、おのおの指をつけてそれを味わった。
 実際的な孔子はそれが酸いと知り、仏陀はそれを苦いと呼び、老子はそれを甘いと言った。

 道教徒は主張した。
 もしだれもかれも皆が統一を保つようにするならば人生の喜劇はなおいっそうおもしろくすることができると。
 物のつりあいを保って、おのれの地歩を失わず他人に譲ることが浮世芝居の成功の秘訣ひけつである。
 われわれはおのれの役を立派に勤めるためには、その芝居全体を知っていなければならぬ。
Okakura_Tenshin

 個人を考えるために全体を考えることを忘れてはならない。
 この事を老子は「虚」という得意の隠喩いんゆで説明している。
 物の真に肝要なところはただ虚にのみ存すると彼は主張した。
 たとえば室の本質は、屋根と壁に囲まれた空虚なところに見いだすことができるのであって、屋根や壁そのものにはない。
 水さしの役に立つところは水を注ぎ込むことのできる空所にあって、その形状や製品のいかんには存しない。
 虚はすべてのものを含有するから万能である。
 虚においてのみ運動が可能となる。
 おのれを虚にして他を自由に入らすことのできる人は、すべての立場を自由に行動することができるようになるであろう。
 全体は常に部分を支配することができるのである。

 道教徒のこういう考え方は、剣道相撲すもうの理論に至るまで、動作のあらゆる理論に非常な影響を及ぼした。
 日本の自衛術である柔術はその名を道徳経の中の一句に借りている。
 柔術では無抵抗すなわち虚によって敵の力を出し尽くそうと努め、一方おのれの力は最後の奮闘に勝利を得るために保存しておく。
 芸術においても同一原理の重要なことが暗示の価値によってわかる。
 何物かを表わさずにおくところに、見る者はその考えを完成する機会を与えられる。
 かようにして大傑作は人の心を強くひきつけてついには人が実際にその作品の一部分となるように思われる。
 虚は美的感情の極致までも入って満たせとばかりに人を待っている。

 生の術をきわめた人は、道教徒の言うところの「士」であった。
 士は生まれると夢の国に入る、ただ死に当たって現実にめざめようとするように。
 おのが身を世に知れず隠さんために、みずからの聡明の光を和らげ、「予として冬、川を渉るがごとく、猶として四隣をおそるるがごとく、儼としてそれ客のごとく、渙として冰りのまさに釈けんとするがごとく、敦としてそれ樸のごとく、曠としてそれ谷のごとく、渾としてそれ濁るがごとし。」 
 士にとって人生の三宝は、慈、倹、および「あえて天下の先とならず。」ということであった。

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