石川啄木と函館 その3 橘智恵子の弥生小学校

 啄木は明治40年6月、函館の弥生尋常小学校で代用教員になったが、翌日の平成26年(2014年)6月24日に弥生小学校に立ち寄った。
 弥生小学校は、函館山の右端の山裾の西部地区と呼ばれる地域にあった。
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 啄木はこの地に建っていたこの小学校の前身である「弥生尋常小学校」に、明治40年6月12日から7月中旬まで1ケ月あまり出勤した。
 そこには女学校を卒業し、訓導として赴任したばかりの18歳の智恵子がいた。
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 啄木は日記にこう記している。
 「6月11日予は区立弥生尋常小学校代用教員の辞令を得たり、翌日より予は生まれて第二回目の代用教員生活に入れり月給は三給上俸乃ち一二円なりき、職員室には一五名の職員あり校長は大竹敬三氏なりき、児童は千百名を超えたり職員室の光景は亦少なからず予をして観察する所多からしめき、十五名のうち七名は男にして八名は女教員なりき・・・」 当時の弥生小学校は、函館の学習院ともいわれていた。
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 啄木の弥生小学校の同僚教師たちのことを書いた日記が面白いので、彼らを撮した資料写真とともに紹介する。(誰が誰だが、この写真で推測してみた。)
 「・・晩年には何処か田舎の学校の校長になりて死ぬべき小西君の眼は兎に似たり。
 思い切って色褪せたる洋服着たる遠藤君は、三十五六の年配にて今猶親と仲悪く、怪しき妻君と共に別居する男なり。・・・
 代用なる伊富貴斎宮は名前からして気のきかぬ男、強姦でもやりさうな人相したり。
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 女教師連も亦面白し。
 遠山いし君は背高き奥様にて煙草をのみ、日向操君は三十近くして独身者、悲しくも色青く痩せたり。
 女子大学卒業したりといふ田君は豚の如く肥り熊の如き目を有し、一番快活にして一番『女学生』といふ馬鹿臭い経験に慣れたり。
 森山けん君は黒ン坊にして、渡辺きくゑ君は肉体の一塊なり、世の中にこれ程厭な女は滅多にあらざるべし。
 高橋すゑ君は春愁の女にして、橘智恵君は真直に立てる鹿ノ子百合なるべし。」
 同僚については悪口の言いたい放題の啄木であるが、何故か橘智恵子には優しい目線で接している。 
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 赤矢印の女性が、橘智恵子である。
 啄木が単身で札幌移転の前日には、処女詩集「あこがれ」を携えて智恵子の下宿先を訪ねたりもした。
 彼が智恵子と2人きりで話をしたのは2度だけで、この「橘女史を訪ふて相語る二時間余」は、啄木自身にとってよほど強烈な印象を持って記憶されることとなったらしい。
 やがて、智恵子も函館を引き払い、実家のある札幌へと戻ってくるが、啄木も僅か2週間で小樽へと所在を移した。
 ただ啄木とっての札幌は、智恵子の生まれ育った場所ということで、特別の町だった。

  石狩の都の外の
   君が家    
    林檎の花の散りてやあらむ

 有名なこの歌に歌われた情景こそ、橘智恵子の実家であり、橘果樹園に咲く林檎の花であった。
 啄木日記には、こんなことが書かれている。
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 「人の妻にならぬ前に、たった一度でいいから会いたい!」そう思った。
 「智恵子さん!なんといい名前だろう!あのしとやかな、そして軽やかな、いかにも若い女らしい歩きぶり!さわやかな声!」 
 以下略 智恵子への熱い思いを押さえきれなくなった啄木は、以降、智恵子との相聞歌ともいわれる一連の短歌を次々と発表した。
 その年の12月、啄木の代表作ともなった歌集「一握の砂」を発表、この中で啄木は「忘れがたき人人 二」として、智恵子に寄せる22首の歌を収録した。
 啄木はこの歌集に、「橘智恵子様へ著者」の署名を入れた上で智恵子へ贈った。
 さらに、ここに収まる22首の歌について「君もそれとは心付給ひつらむ」と葉書にしたためて、これを郵送したのだった。
 啄木と智恵子との恋とは、「一握の砂」の中で完結したわけで、それは啄木の側からの一方的な恋物語だった。
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 しかし、名家である北村牧場へ嫁いだ智恵子は、啄木から贈られた歌集と葉書を嫁ぎ先でも大切に保存していたという。
 それが実際に確認されたのは、智恵子の死から実に7年後のことであった。
 智恵子は2男5女をもうけたが、啄木と同じで長くは生きていられず、大正11年産褥熱のため岩見沢病院で死去、33歳の時だった。

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