近江街道をゆく その32 朝鮮人街道を歩く

八幡堀の船旅をたっぷり堪能した後、八幡商人のまちなみとその街を貫く朝鮮人街道を訪ねた。
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この京街道と書かれている道が、通称で朝鮮人街道と呼ばれる道である。

この「近江街道の旅」は、日本人の血液のなかの有力な部分が朝鮮半島を南下して大量に滴り落ちてきた痕跡の一部にたどり着くのが最も重要な目的で、その痕跡の一つがこの朝鮮人街道である。
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その朝鮮人街道を歩いていく。

街道の距離は約41.2 kmで、同区間の中山道38.7 kmより長い。

野洲宿(滋賀県野洲市行畑)で中山道から分岐し、琵琶湖沿いを八幡・安土・彦根を経由して、滋賀県彦根市鳥居本で再び中山道に合流する道である。

中山道が安土城下を経由しないため、織田信長が1576年に安土城を築いたときに、岐阜城から安土城を経由して京都に向かう道として整備し、安土発展のため中山道ではなくこの街道を通ることが原則とされた。
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道に権威を持たせるために参勤交代の諸大名に通行禁止を命じ、将軍専用の上洛用の道とした。

将軍以外では唯一、李氏朝鮮から国書を携えて江戸に赴くために来日した朝鮮通信使の通行が認められていたため、この道は江戸前期から朝鮮人街道と通称されるようになったという。
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かなりの強風が吹いている中、朝鮮人街道の石柱が建てられている場所まで歩いてきた。

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 格調のある重厚な標柱の横に朝鮮人街道(京街道)の説明が、日本語とハングルで書かれていた。

江戸時代に将軍が交代するたびに朝鮮国より国王の親書をもって来日する朝鮮通信使は、役人の他にも文人や学者など、多いときには500人規模で組織され、往復で1年もの歳月をついやして任務を遂行した。

行程はソウルから江戸まで約2000kmにもなるが、彦根から野洲までの一部の区域で朝鮮人街道と今も呼ばれていることなどが説明されていた。

朝鮮通信使の通行は、1607年から1825年まで12回におよんだ。
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京を発った通信使は、中山道の守山宿で一泊したあと、近江八幡のこの本願寺八幡別院(金台寺)で昼食休憩して彦根で泊まった。

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